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多くの病人を癒す           
             八重尾 次雄          


イエスは、ペトロの家に行き、その姑が熱を出して寝込んでいるのをごらんになった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、姑は起き上がって、イエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取り付かれた者を大勢連れてきた。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」
マタイ9章14節〜17節

 ペテロの姑は、特にイエスに癒しをお願いしておりません。回りも治される事を期待しておりませんでした。しかし、イエスの方で治そうとしておられます。私たちが抱えている問題に切り込まれます。すでに、問題を知っておられ解決しようと考えておられます。ペテロはイエスの「わたしについてきなさい」という言葉に従いました。家も職業も捨てていったのです。しかし、その家に病気の母がいることは、色々の問題が出てきます。今日でも一家の柱が病みますと家事の問題、看病の問題など重圧になって家の者の肩にのしかかってまいります。色々の問題はあったけど、ペテロは召しを第一としたのです。そのとき、その問題の中にイエスご自身が入ってきて、病気を癒して下さいます。私たち、このような時先ず病気を治してから、主に従うことを考えるのではないか。そうしたら、一生、主に従うこと無しに終わるでしょう。
「先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものは全て与えられます。」(マタイ(6・33)
先ずとは、なにをおいても第一にという意味、まあまあでなく本気になって、生活の中に溶かし込むことではないでしょうか。第一を真に第一のものとするとき、第二、第三は付録として与えられます。本屋で雑誌を買うとき、あの付録だけ下さいという人はいないでしょう。本誌を買えば必ず付録はついてきます。そのように、神の国と神の義が大切です。これが本誌です。神の国や神の義は抽象的に過ぎないと思っているとき、何か重要なものが欠けていないでしょうか。全能の主がわたしたちの必要とするものを一切知っておられることを、私が今ここで、知り、信じ、そのように生きることが、忘れるか、欠けてしまっているのではないでしょうか。私たち、付録ばかり探し回り、ほんとうのものを求めていないようです。
第一に主を中心とし、主に従うとき、決して困ることはありません。主が家族をかえりみてくださるからです。その病の家で、人々はすばらしい奇跡を経験しました。私たちは、主に従いつつも悩みを持ちます。悩みながらも、決断して主に従うとき、主ご自身がその悩みの所にたたれます。そして解決なさるのです。
らい病人のときと同じく、イエスはその手に触って癒されました。らい病人を癒された時、イエスが、どんな人も嫌がるらい病人の手に触ったことです。「私の心どおり、きよめられなさい。」と言いつつ。当時、らい病人が近づいただけで、群集は怖がり、飛び散り、弟子も遠くに退いたのに、ただ一人、世界でたった一人、イエスだけが手を伸ばし、悪い部分に触られました。ここに神の愛の大胆さを感じます。
イエスはどんなに大勢の病む者がいても、イエスは一人一人に手を置いて、常に一個人に対して真剣です。イエスは何処でも、十把ひとからげの集団的癒しをなさったことはありません。一人の病めるものと一対一の人格的つながりを重要視されました。これは迷う一匹の子羊を捜し求める羊飼いの姿ではありませんか。真のいやしは、イエスとの個の関わりの中で行われるもので、それは今、この時、この場所で行われるただ一回だけの出来事です。これが、一般化、マニュアル化されると、イエスのいやしではなく、単なるまじないになることでしょう。
さて、いやされた、姑の彼女は、感謝してイエスに仕えました。主イエスをもてなしたことのなかに、治癒がどれほど速やかな、完全なものであったかを知ることが出来ます。彼女は行動の一切を、イエスに感謝の照準をあわせておりました。信仰は、このイエスに対する感謝と賛美が続きます。
苦しみ悩むとき、感謝の主は、一層近くに居られます。「彼は、わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」とイザヤは言います。苦しみ悩むものの近くに居られる主の姿であります。そこに、わたしたちの苦しみと、弱さと、病とを、自分のものとして負われる主が明らかに出ています。そのとき、奇蹟は単なるいやしを越えて、イエスが人々の苦難を負う生きた愛です。ここに十字架の姿が浮き彫りになるのです。
士反先生が、説教を通じて、イエスは人のために死ぬことを引き受けて、そういう生を受けて生きた一人の人間といわれましたが、そのことが深くかかわっているのを感じます。主は、苦難を負うことによって人の苦しみを取り去り、自分の身体に担うことによって病を取り去ります。十字架の主こそ、病の主、全てのわずらいの主にほかなりません。私は、ちっぽけな信仰に過ぎないけれども、いつも立ったり座ったりの生活の中に、このイエス・キリストを見上げつつ、連なって生きたいと思います。




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