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使命に生きる 八重尾 次雄
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「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。 すると、 一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります」と言った。 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。 イエスはその人に言われた。 「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」 |
山上の教えを終えられた主イエスに、大勢の群衆が従いました。すると、一人のらい病を患っている人が主イエスに近づいてきて、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります」と言いました。主よ、あなたにすがるしかない私ですが、このみっともない私を清めていただけますでしょうか、とでも言っているような響きが感じられます。主よ、助けてください。憐れんでくださいという願いがこもっています。
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」 驚くべきみわざです。苦しみ、悩むものに対する憐れみと愛のほとばしりで、その苦しみを解き放たれました。結果として、人々の信仰を激励するものでもありました。
「イエスはその人に言われた。 『だれにも話さないように気をつけなさい。・・・・・・』と」
これは意外な主イエスの言葉です。 主イエスが、らい病を治してくださったと自他ともに喜ぶのが私たちの日常生活で、これをヨシとするのが当然のように思うのですが、それは間違いだと主イエスは考えられるわけです。らい病の治癒が、憐れみと愛のほとばしりであったとはいえ、主イエスの地上における、第一の、最も大切な、みわざではなかったのでしょう。
ここで、『神の言葉に生きること』。そして、これが本来の生命を与える。そしてこれが、自分自身の使命だとされた、あの受洗された直後の荒野での誘惑で確信を得られた、あの事実に、思い当たります。主イエスは、本来の使命に歩むために、この意外な言葉をらい病人に与えられたのであります。ここで、荒野の誘惑をふりかえってみたいと思います。
受洗後の主イエスは、神の子として、何を語り、何を行い、民衆に何をもたらすべきか、主イエス
は、ひたすらこのことを思い、このことについて四十日間断食のうえ、神に祈られました。苦闘の末に、主イエスが確信され、悪魔を退けて、主が語られた言葉、第一、第二、第三と三つありましたね。 マタイ4・1〜10 です。
第一は 「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。
第二は「あなたの神である主を試してはならない」と。
第三は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と。
これが主イエスの教えの柱になっているのだと思います。主イエスの生涯は、この三つの言葉が基礎になって、この後に展開された、福音の宣教、様々な教え、不思議なみわざ、そしてそれらの完結として十字架と復活の赦しでありました。
これらの中で、荒野の誘惑の全ての象徴として、目をとめさせられるのが、やはり、十字架と復活の赦しの出来事ではないかと思います。三つの言葉が全部凝縮されております。
先日の礼拝の説教の言葉の中で、 マタイ 20・28 ですが「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われております。
私たちに仕えるために自分の命を献げる。これ以上の仕え方があるでしょうか。
そして、私についてきなさいと招かれます。 私は自分の罪があがなわれた。ただ 「感謝します。」 に終ってはならないと思います。この私が十字架を担って、わが人生を引き受けて、歩き出します。
私は、多くの欠点を持つ、馬鹿な人間ですが馬鹿なりの人生を担うのです。それが十字架を担うことだと思います。
神に感謝