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実によって木を知る                
             八重尾 次雄          


すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また悪い木が良い実を結ぶことも出来ない。
(マタイ7章 17〜18節) 

 同じ種類の木であっても、良い木が良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。悪い木が良い実を結ぶことはありません。このような自然の現象は、そのまま我々にも当てはまるのではないでしょうか。

 キェルケゴールは、愛の生命と摂理の第一章で悪い実を「なんの愛も住まっておらぬこと」即ち愛の不在と解釈しております。 良い実は、真実の愛がそこに結実している・・・・聖書のみ言葉は隅から隅まで真実の愛そのものです。 従ってよい実は聖書全体だと言うことになりますが、その中で適切だと思われる所は、 つい先日五月九日の説教で聞いたところヨハネ133135にある言葉、「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というところ、ここに生きることではないかと思うのです。

「私があなたを愛したように」とはどういうことか。 既にご存知の、放蕩息子の所を引用します。

父は、放蕩息子の申し出によって、財産の分け前を与えました。父は、放蕩息子が財産を手にしたらどんなことをするか分かっていたことは十分察しがつきますが、息子の意志を通しました。当然のこととして、息子が、ぎゃふんという結果に陥ることも予想していたことでしょう。
 放蕩息子は、放蕩の限りを尽くして食べることも出来なくなり、どんぞ底に落ちました。そして悔い改めて、父の家へ帰っていった。父はこの子を大歓迎で迎えました。
 父には、息子への赦しがあったのです。失敗した息子を赦し、信頼した。これがキリストの愛でしょう。 悪道へ落ち込んだことを経験したものへの赦し、それにもとづく信頼です。
 お互いの存在を大切にして、一人一人がこの赦しのある信頼をもとに生きる人生。神がこの愛と信頼を、私達一人一人になされている。
 失敗してもかまわない、ぎゃふんというめにあっても、ひるまない、成果を期待せず、自分が好きなことに、やりたいことに、自分に向かって進む。そこへ神よりの新しい道が与えられる。それを信じて歩き出す。
 この神の恵みに応えて、自分の最上のものを神へ捧げる。 私達は、自分を差し出すことしかもちあわせておりません。自分がやろうと決めたことに、汗を流して、吾を忘れて、飯も忘れて、打ち込んで自分の最高のものを差し出す。良い実とはこういうことではないかと思います。

 そのように考えると、ほんとうにすばらしいことが与えられたものだと感じるわけです。
 私は樹木について色々の必要なことを探り、実際にやることにしました。
 実際にやり始めると、時間を取ることに苦労します。そのために今までやっていたことを捨てる必要もあります。 あれもこれもと欲張らずに生きようと思います。下手くそでありますが、自分なりにやります。 

 神に感謝

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