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ルカによる福音書を読む
             大沼 正吾


 

イエスは知恵も増し、背丈も伸び、神と人に愛された」(ルカ2・52

今回も前回と同じ箇所です。「神と人とに愛される」ということに焦点を当て、前回は「神に愛されるとは」ということについて述べさせていただきました。

 今回は「人に愛されるとは」ということについて述べさせていただきます。「人に愛される」、このことは私にとってとても重いテーマです。
 私は来年50歳になるのですが、実は未だに「対人恐怖症」的な心性が残っているのです。「対人恐怖」、文字どおりに言えば、「人を恐れる」、「人に対して恐れの感情をもつ」ということになるのですが、「恐れ」の中味をもっとつきつめて申しますと、「人から見捨てられる恐さ、人から嫌われてしまうことへの恐れ」ということになると思います。
 この感情を強く抱くようになったのは、社会人になってからでした。職場や地域の人に異常に気を遣う自分に違和感を覚えるのですが、どうして必要以上に、人に嫌われまいとして気を遣い、自分を抑え人に合わせたり、緊張したりするのかよくわかりませんでした。どうして自分はこんな性格になってしまったのだろうか、何とかしなければと思い、心理学や医学関係の本を読み始めました。そして「対人恐怖」の根が、乳幼児期から学童期にかけての親子関係、特に母子関係の中で培われるものであり、「人から嫌われることへの恐れ」、「人から見捨てられてしまう恐怖」というのは、実は親から嫌われてしまう恐れ、母親から見捨てられてしまう恐怖感に根源的な原因があるということを知った時は、非常にショックでした。
 「セルフイメージ」という言葉があります。日本語に置き換えると「自己像」とでもいうのでしょうか。「自分の中にあるもう1人の自分が、自分をどう思っているか、どう評価しているか」ということです。この「もう1人の自分」というのは、乳幼児期から学童期にかけての親子関係を中心とする人間関係の中で取り入れられると言われています。十分に愛情を知って育てられた子は、健全なセルフイメージを持つようになり、大人になっても健全な人間関係を保つことができます。しかし、健全な親の愛情を受けることなく育てられると、セルフイメージがゆがみ、大人になっても人間関係がうまく保てなくなり、自らが悩んだり、ひいては心の病気になったり、あるいは周囲を巻き込んで困らせたりすることになります。
 エリック・バーンというカナダ生まれの精神医学者が創始した、「交流分析」という心理療法の体系があります。バーンによれば、人間(成人)の心の中には「親的自我」(P)、「大人としての自我」(A)、「子供的自我」(C)という3つの自我状態があり、さらにこの3つの自我状態には、各々肯定的側面と否定的側面があり、計6つの各々の自我状態に分けられ、人は、時と場所と相手によって、これらの自我状態をうまく使い分けて人間関係を上手に保っているといいます。しかし、この6つの自我感情がいびつだと、偏った性格になり、人間関係がうまく保てなくなるというのです。
 「親的自我」の肯定的側面が発揮される時、愛情や慈しみなどの心が生じます。否定的側面が出ると、「おせっかいやき」、「人に干渉しすぎる」などという傾向が強くなります。
 「大人としての自我」の肯定的側面が前面に出ると、状況やデータを冷静に分析し、決断する能力として表れます。否定的側面は、常にあまりに冷静でクールすぎて、感情を持たない、機械的な判断、冷淡などの傾向です。
 「子供的自我」の肯定的側面としては、無邪気で天真爛漫、チャレンジ精神旺盛などの傾向として表れますし、否定的側面として出ると、所かまわず羽目をはずす、人の迷惑を顧みない、過度な従順、気の遣い過ぎ、逃避的、自責的などの傾向が生じます。
 ご自分の性格傾向を当てはめてみてはいかがでしょうか。「なるほど」と思うところがおありでしょうか。「子供的自我」の否定的側面は、親の「育児スタイル」に強く影響を受けます。つまり、親がどう子供を扱ったかということにより決定的になります。バーンは、子供に対する親(とりわけ母親)の言動、メッセージを「魔女の呪い」と呼びました。健全な子供に育つか育たないかは、親の育て方ひとつにかかるということです。
 「魔女の呪い」つまり、否定的な言動(「禁止令」と言います)を多く浴びせられれば、当然健全な心が育つ筈がありません。自分の成育環境を考えると、思い当たるところがあります。具体的な両親の言動は全く記憶にないのですが、夫婦関係があまりよくない上に、嫁姑関係が最悪でした。父は小心者で無口なのですが、その分ストレスがたまるのでしょうか、酒を飲むと母に当たったり、子供に当たったりすることがよくありました。子供心に父が乱れると怖かったことを覚えています。その上嫁姑関係が悪く常に言い争いが絶えず、暗い家庭でした。何度か、母は私たち子供を連れて実家に帰っていました。仲人に仲裁に入ってもらったりしていたのを覚えていますから、離婚の危機もあったのでしょう。
 具体的な両親の私に対する言動は、申しましたように、覚えていないのですが、小学校の低学年の頃から、母を悲しませてはいけないという思いがとても強くなり、いつも「いい子」でいることを心がけるようになりました。いつも「いい子」でいないと、母が喜んでくれない、悲しませてしまう、苦労している母が可愛そうという思いが強化されていきました。常に「期待されるいい子」、母を喜ばせることが自分の一番の存在価値だと思ってきました。逆に言えば、母を喜ばせられなくなったら自分は存在価値がなくなる、母から嫌われてしまう、見捨てられてしまうという不安感を勝手に増幅させていったのです。かくして「見捨てられる不安」を基底とする「対人恐怖」的心性が形成され、解消されないままに大人になってしまいましたので、社会人になると、他人に見捨てられることに恐怖感を抱くようになる訳です。ですから必要以上に人に気を遣ったりするんですね。

 
 昨年の榊原茂先生の講演の際、先生は、テロの頻発で仕事がなくなり、日本に来て講演をすることについてある牧師に打診しようと思ったのだが、「断られるのが怖くてなかなかできなかった」とおっしゃっていました。そしてその恐さの根は、幼児期の母との関係に遡るというようなことをおっしゃいました。著書の中にも、両親が不仲で小さい時から喧嘩が絶えなかったこと、幼い時に母から「離婚しょうと思ったけど、あなたがお腹の中に入っていて離婚できなかったのよ」と言い放たれたことを赤裸々に記していますが、その母の言葉、子供に対する強烈な「拒絶の一言」がトラウマになっていて、「人から断られる」ことに恐怖感をもつ、とうようなことをおっしゃいました。イスラエルに単身で渡り、決闘までしようとした、一見何者をも恐れないかのように見える人も、そういう心の痛みを引きずって生きているのだなあと感じ、人の心は外見ではわからないものだとつくづく思いました。
 未だに他者の評価を気にしたり、他人の顔色をうかがう心性は強くあります。しかし、教会に通うようになってから、次第にそういう自分を客観的に見つめることができるようになってきていると思います。人を恐れるとわなに陥る(箴言2916)とあります。人の評価は十人十色、それにビクビクしていたら本当に生きづらくなります。本当に自分の良いところも悪いところもご存知なのは神さまだと思うようになった時、「人から愛される」ということにそれほど執着しなくてもいいということがわかってきました。
 人間の愛には限界があります。人間は裏切ります。しかし、神さまは裏切らない。わたしはあなたの名を呼んだ(イザヤ43・1)。どんな時にもわたしの名を呼び続け、忘れない神さまがいて下さることを信じて歩みたいものです。

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