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ルカによる福音書を読む
             大沼 正吾


 

イエスは知恵も増し、背丈も伸び、神と人に愛された」(ルカ2・52

冒頭のみ言葉は、少年イエスが成長するに従って、知恵が増し、心身ともに順調に成長し、神様の恵みのうちに、周囲の人々から可愛がられ、愛されていったというような意味だと思うのですが、そうした意味合いとは多少ニュアンスが違うかもしれませんが、今回と次回の2回に分けて「神に愛されるとは」、「人に愛されるとは」ということについて、私なりに考えてみることにしました。今回は「神に愛されるということ」について述べさせていただきます。

「神に愛されるとは」どういうことなのでしょうか。私はそれは「今」、「ここに」「いのち与えられ」「生きている」ということ、その事実が神様に愛されているということではないかと思います。

時々私は、自分が「今」、「この地で」「このようにして」生きているということが、本当に本当に不思議でたまらなくなることがあります。話が飛躍しますが、宇宙が誕生してから150億年の「時間」が経っているそうです。宇宙の広さ(「空間」)は、150億光年(1光年は光が一年間に進む距離)だそうです。ちなみに空間は今も尚広がり続けているのだそうです。150億光年という時間の流れ、150億光年という「空間」のスケール、これを一体どのように把握したらよいのでしょうか。「無限」にも近い、「時空間」を把握しようと努めて、そのあまりの遠大なスケールに、遂に発狂してしまった数学者や物理学者がいたそうです。「途方もない」とか「途方にくれる」などと言いますが、まさにそういうことだったのでしょう。

150億光年という途方もない時空間のことを考えてみなくとも、地球という星の上で生きているということだけを考えてみても、実はまことに不思議なことと言わざるを得ません。地球が誕生してからおよそ45億光年だそうです。「不動の大地」などと言いますが実は、全くそんなことはなくて、年に数ミリ、数センチ単位でありますが、地球内部の「マントル対流」(マグマの運動)によって、どの大陸も移動し続けているのです。そもそも地球の内部は、ドロドロのマグマに満ちていて、極めて不安定な状態にあるのです。そんなところで、私たちが生きているんだということは、日常的には考えてもみません。

そして更にこの地球が、時速10万7千キロメートルという猛スピードで自ら回転しつづけているという事実、朝になり昼になり夜になるということは毎日経験しているのですが、地球の表面の、太陽に面している時間帯が「昼」で、太陽の裏側にある時間帯が「夜」であるというような考え方は、理科の教科書で習った時にはなるほどと思っても、日常的には、そういう事実に何の不思議さも驚きも覚えないのです。加えて自転しながらも、太陽の周りを一定の周期と距離を保ちながら、しかも太陽に向ける角度を微妙に変えながら公転している(だから四季があるのですね)という事実。まさに奇跡、驚異という他ないのではないでしょうか.

 先日、NHKでシリーズで「ジュニア宇宙論」という番組がありました。その中で、元宇宙飛行士の毛利衛さんが「地球という惑星は幾重にも、実に『運のいい』星なのです。もし、地球の近くに木星のような大きな惑星がなかったら、大流星群の衝突を受けて、とうに地球は消滅していたはずです。」と言っていました。毛利さんの「地球という惑星は幾重にも『運のいい』星なのです。」という言葉が、いつまでも私の心から離れませんでした。私には『運がいい』のではなく、天地の創り主、宇宙の創造主がおられそのみ手のなかにあるから存在し、大宇宙の中にあって、絶妙なバランスを保ちながら存続し続けていられるのではないかと思えてなりませんでした。

詩編の記者も次のように言っています。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたがみ心に留めて下さるとは、人間とは何ものなのでしょう、人の子は何ものなのでしょう。」(詩篇8・4〜5)大宇宙のこと、その中にあって本当に本当に小さな惑星に過ぎない地球という星、そしてそこに生きている、人間、この私・・・、百年前でも千年前でも、一万年前でもなく、百年後でも、千年後でもなく、一万年後でもなく、「今」「この時代に」、ヨーロッパでもなく、中東でもなく、アフリカや南米でもなく、日本と呼ばれる国の、しかも、東京でも大阪でもなく、九州や北海道でもない、新潟の新発田という地に、決して自ら意志した訳でもないのに、何故かいのち与えられ、「生きている」という事実。考えてみれば、まことにまことに不思議なことであり、詩篇の記者のように「人間とは何ものなのでしょう」、「私とは何ものなのでしょう」と叫ばずにはおられません。

「神はすべての事とすべてのわざに時を定められた」(伝道の書3・17)、
「生まるるに時があり」(伝道の書3・2)、
「あなたはわたしを生まれさせ、わたしは生まれた時からあなたにゆだねられました」(詩篇2・9〜10)、
「わたしは、あなたがまだ母の胎のつくられないさきに、あなたを知り、
あなたがまだ生まれるさきに、あなたを聖別した」(エレミア1・55
とあります。

ある牧師は、著書の中で「たとえ人の目には、どのように悲惨に見えようとも、あなたが、この地上に今いのちを与えられているという事実、これより確かな神の愛のしるしはないのです」と書いています。天地万物の創造主なる神様に愛されている存在だから、その計画のうちに、今地上にこうして「いのち」与えられ、「存在して」いるということでしょう。理由のわからない偶然や、運命のいたずらなどという不確かさによって、今ここにあるのではなく、創造主なる神様のみ手(摂理)の中にあって、「在る」んだということでしょう。

人それぞれに、神様からいただいている賜物は違います。人間の目や思いからすると、本当に不平等としか見えてこないかもしれません。しかし、「今」「ここに」「いのち与えられ」「生かされている」という事実、この不思議さに思いを馳せる時、実はどのような状況や形にせよ、「生きている」というそのこと自体が実に尊くて、重い意味があるのではないかと思わずにはおれません。一見、平凡に過ぎていく一日一日が、実は地球という星の、驚異という他ない絶妙な運行と似て、特別に神様の配慮の下に守られてある日々ではないかと思えることであります。平凡に生きられた一日が、実は奇跡の一日ではなかったかと思われることがあります。

「わたしはあなたの名を呼んだ、あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与える」(イザヤ45・4)、「名を呼ぶ」「名を与える」ということは、「存在を認める」「存在を許す」ということだと思います。「神に愛されるということ」は、神様から名を呼ばれ、「名を与えられ」、「命」「ここに」「生かされていること」をしることではないでしょうか。人それぞれに、神様からいただいた「いのち」「賜物」の重さを覚え、感謝して生きることが大切のように思います


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