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ルカによる福音書を読む 大沼 正吾
| 「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」(ルカ2章50節) |
今回は、新共同訳聖書の「神殿でのイエス」という小題のついた箇所の、終わりから2番目の節について考えてみました。
前回の続きから言いますと、過越祭で両親と共にエルサレムに旅したイエスは、帰途姿が見えなくなり、両親は三日間捜しまわりました。ようやく発見した時イエスは、エルサレムの神殿の境内で、こともあろうに、立法学者の真ん中に座り、話を聞いたり、質問したりしていたのでした。そして、聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていたというのです。そして、たしなめた両親に対して「わたしが父の家にいるのが当たり前だということを知らなかったのですか」と言われたのでした。
この記事を読むと、この時(12歳で)既にイエス様は、自らが「神の子」であるということを自覚していたということが読みとれます。「真実に」「神の子」としての自覚があったからこそと言えばよろしいのでしょうか、我々人間が考えるような意味での「特権」や「超越性」の行使をされませんでした。エルサレム神殿で律法学者を論破し驚嘆され、まさに「神童」として称賛を浴びることもできたのかも知れませんが、そのような道を選ばれず、「ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」のでした。
聖書には「仕える」という言葉が多く出てきます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10・42〜45)、「神に喜ばれるように仕えていこう」(ヘブル12・28)、「どんな召使も二人の主人に仕えることはできません・・・神と富に仕えることはできない」(ルカ16・13)、「心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え」(申命10・13)等々です。「仕える」という言葉を「愛」とか「隣人愛」という言葉に置き換えてみると、実に多くの記事があります。「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」(レビ19・18)、「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命6・4)、「愛を求める人は人のあやまちをゆるす」(箴言17・9)、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5・43)、「互いに愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない」(ローマ13・8)、「山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(第一コリント13・2)、「わたしたちは言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」(第一ヨハネ3・18)、「現に見ている兄弟を愛さない者は目に見えない神を愛することはできない」(第一ヨハネ4・20)等々です。
これらのみ言葉をただ読み上げたり、文字にするだけなら、いともた易いことです。しかし、これらを自らの実生活の中で実行しようとすると、いかに難しいことでしょう。途方にくれてしまう以外ありません。「神を愛し、隣人を愛する」と言っても、私の場合はあくまでも「条件付の愛」なのだと思うのです。「神を愛する」と言っても、実は、神様が自分の健康や生命を守ってくれていると感じられるから愛する、というようなレベルのものではないかと思うことがあります。今、突然死に至るような病気の宣告を受けたらどうでしょう。それでも尚「神様感謝です、神様を愛します」などど言えるでしょうか。愛するどころか、神様を恨み、怒り、「神なんかいない!」というような心境になってしまうのではないでしょうか。もっともこういうのは所詮「神を愛する」などとは言えないのかもしれません。「神を自己の利益のために利用している」にすぎないのでしょう。「隣人愛」にしても、とても「敵」を愛することなど私にはできないし、自分の生活や職業をなげうって人のために尽くすなどということもできません。自らは常に安全な、恵まれた状況の中にあって、時に少しばかりの時間やお金を他者のために献げるということができるという位でしょうか。
こう考えていくと、本当に本当に、自分という人間は、どこまでも利己的で自己中心的なんだなあと思わされます。ペトロが、鶏が鳴く前に三度イエス様を裏切りました。三度目は、呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓い始めた(マタイ26・74)とあります。このペトロの、自らの立場や生命が窮地に陥った時の言動、我が身かわいさ、これがまさに私の本当の姿だなあと、つくづく思うのです。
そういう弱さや醜さを担いながら生きていかなければならないと思っています。「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である」(ルカ5・31〜32)。まさに私は心のいびつな病人だなと思うのです。でも本当に病人としての「病識」を持っているのだろうか。実はそれさえあやしくなることもあるのです。