「真理」って何? 真理のTOPページへ
ルカによる福音書を読む 大沼 正吾
さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をしていた。イエスが十二歳になったときにも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが,両親はそれに気がつかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜しまわったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。・・・・両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。」・・・するとイエスは言われた「・・・・わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分らなかった。(ルカ 2:41〜49)
今回は新共同訳聖書で「神殿での少年イエス」という見出しのついた箇所です。ルカ2・42に「イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの習慣に従って都に上った」とあります。当時、幼年、老年、病人、奴隷を除いてすべての男子は、一年に三回エルサレムの神殿にもうでることになっていました。出エジプト記34・23には「年に三度、男子はみな主なる神、イスラエルの神の前に出なければならない」とありますし、さらに申命記16・16には「男子は皆、あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、即ち種入れぬパンの祭りと、七週の祭りと仮庵の祭りに主の前にでなければならない」と記されています。今回の記事の中の祭りはそうした、いわばイスラエルの三大巡礼祭の中の「種入れぬパンの祭り」すなわち[過越祭](ルカ2・41)だったと記されています。
ナザレからエルサレムまでは直線距離で100km強ですから、身近な例で言うと新発田から小千谷、柏崎辺りまでの道のりを年に三回も行き来したことになります。「一日分の道のり」(ルカ2・44)は現在の20kmから30kmくらいだったそうです。ですから、三〜四日かけてエルサレムにのぼった訳です。
帰途、両親は「一日分の道のり」を行ってしまうまで、イエスが居なかったことに気がつかずにいて、居ないと知って捜しながらエルサレムに引き返した、と記されています。ここを読んだ時、初め、1kmや2km行って居ないのに気が付いたというのならわかるけれど、いくらなんでも20〜30kmも進むまで、自分の子供が居るのか居ないのか分らないというのは、どういうことなんだろうと首をかしげたい思いでした。
しかし、「親戚や知人の間を捜し回った」という記載にあるように、「過越祭」ともなると、それこそユダヤの全土から、人々がエルサレムめがけて集い、そして祭りが終わると一斉に帰途についたのでしょうから幹線道路といいますか、エルサレムからがリラや地方に向かう主要な道路は、人、人、人でごったがえしていたのではないでしょうか。
また十二歳というと現在の日本では小学校六年生ですから、とても「幼い」というイメージでとらえがちですが、当時では「少年」というよりむしろ「青年」に近いような年代であり、家庭の中では立派に「労働力」としてあてにされていたでしょうし、実際それに応える働きをしていたのでしょうから、大人ともいう目で(少しくらい迷っても大丈夫)、旅に連れ出していたのでしょう。
少し話題がそれますが、日本でも、「元服」という武士階級男子の「成人」の儀式は十二歳から十六歳位(?)までに行われました。蛇足ですが、今、新潟日報に「海続く果て」と題して、山本五十六(長岡市出身・太平洋戦争時の連合艦隊司令官)の伝記小説が掲載されていますが、三月四日(火)に、山本五十六の義父について取り上げた箇所があり、次のように書かれていました。読んで本当に驚嘆してしまいました。「三橋康守(山本五十六の義父)は会津藩士として生まれた・・・戊辰戦争のときは、わずか九歳だった。今ではあまりにも有名になった白虎隊は十五歳からしか参加できなかった。そこで康守は年少の子供たちだけを集めて隊を作り、出陣した。九歳と言えばほんの小さな子供である。大刀、小刀を脇に差したはいいが、それが重くて峠を歩くのにひどく難儀したと後年、本人が語っている」。
これは、死を常とする武士の話だと言うかも知れませんが、昔の子供は凄かったんだなあと本当に驚かされました。つまり、何を申したいかと言いますと、「十二歳のイエス」とありますが、当時の十二歳は、現代日本の十二歳とは比較にならないほど大人であっただろうということです。ですから、エルサレムの帰途もまさかマリヤとヨセフに両手をつないでもらって歩いたりはしなかったでしょう。だからはぐれてしまうこともあったでしょうし、少し位姿が見えなくとも親の方も大人として扱っていたので、心配もしていなかったのではないでしょうか。その結果として「一日分の道のり」を行くまで、イエスが居ないことには気づかなかったということが起ったのではなかったかと思います。
両親は「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」とあります。マリヤとヨセフは、人々が帰途につく道のりを、会う人会う人ごとにイエスを尋ねながら再び「エルサレムに引き返した」のではなかったでしょうか。そしてさすがに丸一日捜しても見つからなかった時には心から心配したのではないでしょうか。尋ね尋ねて、ようやく捜し当てたイエス様が、こともあろうに、神殿の境内で、学者たち(律法学者=当時の宗教的権威者、宗教的エリート達)の「真ん中に座り」「話を聞いたり質問したりしている」のを見つけた時、どんな心境だったでしょうか。「母は言った」とあります。「父」ではなく「母」がまず言ったという辺りに真実味を感じました。他の男性はわかりませんが、自分のこととしてこの場面に感情移入してみると、「お偉方」の手前ちょっと理性的にふるまおうとして言葉を選んだりするのかも知れませんが、母親は違う、「生んだ者の強さ」とでもいうのでしょうか、「愛の強さ」とでもいうのでしょうか、「理性的に」などということすら考える間もなく、捜しまわっていた時の不安や心配が強かった分、反動形成で、怒りにも似た感情が一挙に噴き出してきて、ヨセフよりもまず先にマリヤが言葉を発したのだと思います。
そんなマリヤの思いをルカは、「なぜこんなことをしてくれたのです」と記しています。「こんなことを」というのは、「両親にも告げずに三日間もどこで何をしていたの!」という、今述べたようなことからの思いも当然込められているとは思いますが、一方見分不相応の子供が、宗教的な最高権威達の真ん中に座り論じ合っていた訳ですから、学者たちに向けたポーズとして叱責しないではおれなかったと言う心情も汲み取れるような気がするのです。
母マリヤの言葉に続いて、イエス様の発した言葉は冒頭に記してあるとおりです。両親は、本当にチンプンカンプンというか、訳がわからず一種のパニックに陥ったのではなかったでしょうか。ヨセフにもマリヤにも共に天使が、「ヨセフよ…マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのである・・・主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」(マタイ1・20〜22)、「(マリヤよ)生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1・34〜35)というように告げていた訳ですから、何か感じなかったのかなとも考えてみましたが、三日も捜し歩いた息子から突然「わたしが父の家にいるのは当時当たり前だということを知らなかったのですか」などど言われても、12年も前の受胎告知の時の天使の知らせと関連づけて考えるということは所詮無理なことだったのだろうと思い直しました。
「両親にはイエスの言葉の意味がわからなかった」と記されています。これは両親の問題ではなく、私自身の問題でもあると思うのです。毎日、聖書や、聖書を引用した祈りの書などを読んでいますが、「イエスの言葉の意味」が本当に分っているのだろうかと問われているような気がします。
本当にイエス様が自らの命を投げうって伝えたかったことや、弟子達や民衆や、律法学者らに向かって語った言葉の本当の深い意味が未だにわかっていないのだと思います。でもあきらめることはしたくありません。ヨハネ第5章に記してあるあのベトサダの池のほとりに横たわっていた病人は、イエス様に出会うまでに何年かかったのでしょう。「病気になって」からだけでも三十八年間経っていました。出会った時一体何歳だったのでしょうか。前回書きましたように、当時の人間の平均寿命は30歳台でしたから、あの病人ば何歳まで生きたかはわかりませんが、普通に考えるとイエス様と出会った時にはすでに晩年に近かったことでしょう。私がイエス様の言葉の深みを「心から」分り、感じられるようになるのはいつかはわかりませんが、あきらめないで求めていきたいと思っています。
人生に行き詰まった時、自分なんかダメだなあと思った時、「わたしの目にあなたは高く,貴く、わたしはあなたを愛し・・・・あなたと共にいる」(イザヤ43・4〜5)というみ言葉を頼りに生きているのは本当です。人と比べたら変だなあ、信仰がまだまだ小さいなあと思われるかも知れませんが私なりに「達し得たところに従って」(ピリピ2・16)歩ませていただきたいと思っています。
「真理」TOPページへ 創世記を読む(15) 神のみにつかえなさい(15) マタイの福音書を読む(15)