マタイの福音書を読む23 菊池 淑子 「真理」って何? 真理のTOPページへ
思いわずらうな
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食べ物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれたものではないか。あなたがたのうち、誰が思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょう生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上良くして下さらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
マタイ6章25〜34節
今回の箇所は「それだから、あなたがたに言っておく」という言葉から始まります。先生はよく説教の中で、イエスの言葉が「しかし」とか「だから」とか「又」といった接続詞で始まる時に、「何に対して、しかし、なのですか」、「何・・・だからなのですか」というふうに質問されます。だから今日は私も真似をして「それだから」の「それ」は何なのかを考えてみました。そのためには、前回の箇所に戻ってみなければいけません。
前回は「神にのみ仕えなさい」ということが中心でした。物に必要以上に固執して物の奴隷になってしまう、そういう生き方をやめて神に仕えなさい、神の心を自分の心として生きなさい、ということでした。そこに今回の箇所がつながるわけです。「それだから」思いわずらうな、それは第一番ではないよ、第一番は神だよ、と言っているわけです。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、これらは皆物への執着です。神を選んで生きなさい、物と神の二つに仕えることはできないよ、と言っているのです。つまり、ここで前回のことをもう一度繰りかえして語っているのです。
でも、私たちは不安です。何故なら食べ物がなければ死ぬからです。現実の経験からすれば、やはり食べ物をたくわえ、今日はこれだけ、明日はこれだけ、と計画的に消費していかなければなりません。着るものも必要です。天から衣服が降ってくるわけではありません。食べること、飲むこと、着ることに心を砕くことは私たちの正常な営みです。しかし、イエスは、それらのことに思い煩うなと言っています。
どうしてイエスの言葉はいつも常識的に考えて私たちが実行しがたいもの、私たちの常識的な考えを打ち破るものばかりなのでしょう。ですから、つい、いろいろな条件をつけてこうだったら聴けるというふうに、イエスの言葉を薄めて受取ろうとしがちです。しかしやはり、イエスのこの言葉はそのとおりに聴いてみなければならないのだと思います。何故なら、これまで見て来た限り、イエスの言葉は100パーセント真実でした。イエスの言葉を薄めることなしに言葉どおりに聴く時、そこに神さまの深い配慮、本当の天国への招きを見いだすことができました。「悲しむものは幸いである」然り、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」然り・・・・。だから、今回の箇所もまずしっかりとイエスの言葉の中に身をおいてみることが大切なのではないかと思います。
これは(イエスがここで思い煩うなといっているのは)、前回の箇所から考えると、それらに執着しているといつか物の奴隷になってしまうということを指摘しているのだと思います。私たちは好むと好まざるとにかかわらず、生きてゆくために食べることに執着し、着ることに執着せざるを得ないでしょう。貧しければ貧しい程、それは現実です。戦後の食糧難の時に、農家である母の実家にお米をもらいに行ったことがあります。汽車に乗っていったのですが、途中でおまわりさん(車掌さんか公安警察だったのかわかりませんが)に見つかれば没収です。おまわりさんが来るから座席の下に隠せと母に言われ、おまわりさんが通り過ぎるまで胸をどきどきさせて耐えていました。教室ではお弁当が盗まれることも、進駐軍の兵士が投げるお菓子をとりあうこともありました。兵士たちは群がる子ども達を見て笑っていました。そんな風にして、誰もが情けなく、やりきれなく思いながらも自分の心を汚して行った時代です。
その様な時に、「思いわずらうな、まず神の国と神の義を求めなさい、空の鳥と野の花を見なさい、神によって養われる生があるではないか、神が備えてくれる美しさがあるではないか」というイエスの声を聞いたとしたら、人々はどう思うでしょうか。そんなきれいごとで生きて行けるかと思う人もあるかもしれませんが、でも、ふと我に帰る人もいるのではないでしょうか。「明日餓死するかもしれないけれど、それでも良い、神さまに委ねて生きてみよう、自分の食べ物を一人占めにしないで分け合って食べよう、明日は明日のこと、でも今日は自分の心を裏切らない生きかたをしてみよう」、そう思う人もいるのではないでしょうか。
私は、そういう人もいるかもしれない、と他人事のように書きました。自分が実際そうなるかどうか自信がないからです。また、ふと我に帰ったとしても、現実の生活の中でやはり心を汚しながら生きることでしょう。でも、一度神さまのほうに向いた心はそのような中にあっても神さまの呼びかけに敏感です。自分の中に葛藤を抱えつつ、イエスに赦しを乞いつつ生きる道へと進んで行くのではないでしょうか。

祈り
神さま、私たちは現実に流され、罪を犯しながら生きていますが、そのような私たちにイエス様は何度も何度もやさしく神様の懐に飛び込んでこないか、と呼びかけてくださいます。その呼びかけに応えて、今日一日を隣り人と共に生きる者としてください。私たちのために十字架の死を引き受けて下さったイエス様の前で、また「神の国と神の義を求めて」私や隣人のために損な役を引き受けて下さっている方々の前で、今日一日を謙遜に生きる者として下さい。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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