マタイの福音書を読む21 菊池 淑子 「真理」って何? 真理のTOPページへ
祈りの本質
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞き入れられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである。
マタイ6章5〜8節
 前回の箇所は偽善を戒めるものでした。偽善とは演じるという意味だそうですが、ありのままの自分ではなく、いろいろのものをいっぱい身につけて大きな自分を装うこと、そういうことはやめなさい、ありのままの姿で神様の前に立ちなさい、神様とあなたの間になにものをも介在させてはならないと、イエス様は言わんとしているのではないか、ということをお話しました。
お金のある自分、家柄のある自分、優れたことの出来る自分――そういうものはこの世の中を生きてゆく上では役に立つものかもしれません。でもそういうものを身につけることに汲汲としていると、本当の自分を見失ってしまいます。本当の自分でない自分で生きていたら、他の人のこころと本当に出会うことが出来るでしょうか。自分がよろいを着てガードを固めれば、相手もよろいを着て本当のこころを隠すにちがいありません。そのとき私たちは人のこころと触れ合って生きる喜びを失ってしまいます。偽善を戒めることによって、イエス様は私たちを人のこころと触れ合って生きる本当の生へと招こうとしているのだと思います。
そして今回の箇所でも「偽善者のように祈るな」と言っています。それからもう一つ、「異邦人のように祈るな」とも言っています。偽善者のような祈り、異邦人のような祈りとはどういう祈りなのでしょうか。
その前に、この機会に、そもそも祈りとは何なのか考えてみたいと思います。
私たちはどんな時に祈るのでしょうか。苦しい時、つらい時、人はどういうわけかわからないけれど自然に何か(信仰によって選び取った神とは限らず、何か力強い人知を超えるもの)に祈ります。苦しみ、つらさは外から来る時もありますが、自分の内から来ることもあります。自分の無力さや卑劣さに気付いた時、自分や他人を許せなくなった時、恥ずかしい時、怒りや苦しみに負けそうになった時、孤独な時、又新しいことに挑戦しようとする時に祈ります。そこには一歩も前に進めなくてうずくまっている自分がいます。言葉に尽くしがたい疼きや呻きをこころの奥底に抱えています。しかし、うれしい時、幸せな気持ちのときも祈ります。私は朝の太陽が昇る時や夕日の沈む様子を眺めるのが無性に好きですが、そういう時はしみじみと祈りたい気持ちになります。これらの思いを、受け止めてくれる方に向けて祈る時、本当にこころが安らぎます。苦しいこと、かなしいこと、うれしいこと、様々なことがあるこの日々を、明日も生きてゆこうという気持ちが湧いて来ます。祈りとは、素朴に、このような思い、裸の自分のこころを神様に伝えることではないでしょうか。
今日の箇所で、「偽善者は人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む」とあります。これが当時の信仰深い人の姿だったのでしょうか。どこで祈られてもそれが神様との間の真のこころの交流なら問題はないのですが、人前で祈ろうとする時、どうしても人は美しい言葉でかっこよく祈りたいという思いにとらわれてしまいます。しかし、誰が神様の前でかっこよさを誇ることができるのでしょうか。そもそも、私たちの本当の姿はうずくまる自分、顔をあげることが出来ない自分だったのではないでしょうか。そんな私たちがイエス様の十字架によって神様の前に立つことができるようになったことを自覚するなら、自分のありのままの姿で立つ以外にどんな立ち方があるでしようか。現代の教会でも、どれだけ祈祷会をやっているかを誇り、形にあらわれたところにのみ重きを置いている教会もあります。しかし、形式だけが重視され、真実のこころを失った祈りは無意味です。隠れた処で、自分を裸にして、あなたの本当の思いを伝えてきなさい、というイエス様の招きに素直に従いたいと思います。
又、異邦人のようにくどくどと祈るな、とはどういうことでしょうか。異邦人は無意味な言葉をつらねていたのかもしれません。仏教のお経は多くの日本人にとって意味が分からない単なる音の羅列にすぎませんが、異邦人の祈りもそういうものであったり、呪文にすぎなかったのかもしれません。イエス様はそういうことを否定したのだと思いますが、それだけにとどまらず、言葉にならない思い、そういう根源的なあなた自身と神様は触れ合おうとしているんだよ、と言いたかったのではないでしょうか。
私たちはうれしいにつけ、悲しいにつけ、私たちの思いを受け止めてくださる方がおられることによって、立ち上がる勇気をもらいます。明日を生きる勇気をもらいます。しかし、祈りは神様の意思を変えるために祈るものではありません。神様は私たちの全てをご存知で、自分のことさえ知らない私たちに、神様の意思を以って、最も良い道を備えてくださいます。神様はそのように素晴らしい方ですが、私たちは普通、その神様を輝かしい栄光と結びつけて考えています。神様の力は偉大さ、繁栄、成功、幸福、健康、名誉の中にあまねくあらわれると考えています。そして、私たちの人生もそういう神様に祝福された華やかな、大きくされる人生でありたいと、願います。しかし、ここでは「神様は隠れた所にいらっしゃる神様だ」と言われています。このことを聞く時、私たちは自分の人生がたとえ貧しくても、小さくても、隠れた処で為されるコツコツとした努力をないがしろにせず、その貧しさや小ささを精一杯生きようとするのではないでしょうか。又、人は本音で生きる時、いがみあったり、誤解しあったり、ねたみあったりと、必ずしもきれいごとではすみません。しかし、そのような時にも、同じ目線に立って、同じ小ささを生きる隣人と助け合い、励ましあって生きようとするのではないでしょうか。その生活の中で経験する様々な思いを神様に捧げて行こうとするのではないでしょうか。その小ささの中で働く神様の力を信じて。

祈り

神様、私には本当のところ祈りが何なのかわかりません。祈りの中で私たちは自分の思いを伝えるだけでなく、神様の思いも聴かなければならないのでしょう。自分のことだけでなく、隣人の為にも祈らなければならないのでしょう。そのことが分かっていても、自分のことのように真剣に祈れない私がいます。祈れと命じられても祈れない私にも、あなたはありのままの姿で立ってきなさい、と言ってくださっています。そんなあなたへの信頼の中で辛うじて信仰の側に立っている私ですが、あなたのみ言葉が聴ける様、耳を開いてください。そしてよろこんであなたに従う者となる様導いてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

「真理」TOPページへ  創世記を読む(29) 中風の人をいやす(29)