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マタイ福音書を読む
                    菊池 淑子


偽善について


自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから施しをする時には、偽善者達が人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやに入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

(マタイ書6章1〜6節)

 

 
今回の箇所でイエスが言わんとしていることは、単純に「偽善の心を捨てなさい」ということだと思います。ここでイエスが戒めているのは、義しいこと、良いことを自らの心の発露として行うのではなく、みんなからあの人は正しい人だ、情け深い人だ、信仰深い人だと思われたいがために行う人です。そういう偽善が戒められているわけですが、しかし、自分の心をのぞいてみれば、そういう気持ちは誰でも持っているのではないでしょうか?心のどこかで、評価されたい、人から認められたいという気持ちが皆無という人はいないでしょう。その証拠に、自分がそれなりの犠牲を払って良かれと思ってしたことが、誰からも見向きもされなかったら寂しい思いをするはずです。(私は、信仰を持ったからと言って、こういう人間の自然の気持ちを押し殺して立派な人間にならなければいけないという考え方に抵抗を感じてしまうのですが。)それらは人としての向上心につながるものであり、一概に悪いとは言えないものです。そういう誰でも持っている心――本当に小さな邪気のない心――しかし、イエスは「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と言うほどに、それを厳しく戒めています。別の箇所でイエスは「パリサイ人のパン種とサドカイ人のパン種に注意しなさい」と言っているように、偽善の心はパン種のように小さくてもいつのまにか何倍にもふくらんで、人の生き方を狂わせるものであるということを、イエスは鋭く見通していたのでしょう。
人から認められたい、評価されたいという気持ちは、正当に認められたい、評価されたいといううちは良いのですが、本当の自分以上に良く見せたい、本当の自分以上に賞賛されたいというふうになってゆくと、だんだん常軌を逸したものになってゆきます。そして自分にもまわりにも害毒を流してゆくのです。人に褒められたいという気持ちの中には人より優れた者でありたい、少しでも人の上に立ちたいという気持ちがひそんでいます。つまり人間をランク付けし、下のものを見下す差別化の根源です。
自分の心の中から律法を守り義しいことをしようとする人には、自分の良心の声に従うやすらぎ、神様に応答する喜びがありますが、人に褒められたくて律法を守る、尊敬されたくて義しいことをする――その人には「褒められる」「尊敬される」ということが中心であり、「律法を守る」「義しいことをする」ということそのものには喜びがありません。律法を守り、義しいことをすることは、自分の自然の欲望を切り捨てなければならないので結構大変なことです。でも褒められたり、立派な人だと賞賛されたりということがあるからその人の気持ちは安定を保っていられるのです。もし誰からも無視されたらその人の心には怒りの感情がわきあがってくるでしょう。こんなに苦労しているのに何で評価されないのか、あの何にもしない奴らと一緒にされたらたまったものではない、というわけで律法を守れない人々を蔑視し、社会からはじきだそうとします。神様―イエスはこういう問題に激しくぶつかって来ます。神様はこうした支配や束縛から私たちを解き放つお方です。そもそもイエスは罪ある人々すべての贖いとして十字架につかれたのです。誰が、彼の死をかけた愛の前で、自分の方が罪が少ないから罪の多い方を差別してもかまわないと言えるでしょうか?こういう意味で、偽善の中には神様の心、イエスの愛をないがしろにするパン種がひそんでいるのです。だからこそイエスは偽善を厳しく戒めているのだと思います。
 人は何故自分を大きく見せたいのでしょうか?何故認められるということにそれほど執着するのでしょうか?こういう気持ちが異常に強い人は幼児期の育った環境が関係していると言われますが、それはともかく、認められるということに異常に執着してしまうということは、自分に自信がない、自分に満足していないということではないでしょうか。強い劣等感を抱き、自分がダメな人間だと思い、その自分を心の底では憎んでいる、だから一生懸命頑張って理想の自分に近づこうとする。しかしそれは劣等感の裏返しである優越感を持ちたいが為です。だから他人から認められることや賞賛されることに異常な関心を抱くようになってしまいます。義しい立派な人間でなければ安心できないのです。もっと言えば、義しい立派な人間でなければ生きる価値がないと思っているのです。単純に心の赴くままに義しいことをするのではなく、人の前でいかに立派であるかということが最大の関心事になってしまいます。こういう人はさっき書いたように、自分だけでなく人にもそれを要求し、立派でない人を軽蔑し、差別するという害毒を流しますが、この人自身も不幸です。立派になろうとすることに絶えず緊張を強いられ、安らぐことがありません。心から喜び、心から人と交わることもありません。あるのはいつまでも消えない劣等感、自分以外の他人への怒りと軽蔑です。
しかし、神様は立派な人間でなければダメだと言っているのでしょうか?神様はどんなに小さくても、どんなにダメでも良い、ありのままの自分で立って来いと言っているのではないでしょうか?神様はダメな私たち、罪を犯さなければ生きていけない私たちの為に、イエスを遣わしたのではなかったのでしょうか?それなのに自分で頑張ってその大きさ、義しさを誇って神様の前に立とうとする(本当は人の前に立っているだけなのですが)ことは、イエスなんかいらないと言うことです。せっかくの神様からの大きなプレゼント、良き報せ、福音を拒否するということになるのです。それはもはや天国とは関係のない世界です。
 私がいつも一応参考にしている『信徒による聖書講解』という本の中では、「人に目立つ為に」立派なことをするという行いの根源にあるのは自己追求であり、それは罪の根源である、と書いてありました。偽善者は人から認められたいということが根底にありリ、関心が自分にしかりません。善行も自分のためです。自分が何かしてもらいたいと思うけれど、他人を認めてあげたい、他人に何かしてあげたいという気持ちはありません。そういう心のあり方は愛とはまったく反対のあり方です。神様の世界は愛の世界です。神様が愛の光を輝かすようにあなたがたも愛の光を輝かせなさいというイエスの言葉の前で、心して偽善に陥らないよう注意したいと思います。

祈 り
神様、偽善の本質は自己追求であり、パン種のように最初は小さくても結局人間疎外を招いてしまいます。今日あなたはそのような偽善に陥らないようにしなさい、私の愛にとどまっていなさいと呼びかけて下さっています。あなたに愛されているという信頼の中で、たとえ小さくても、たとえ罪にまみれていようとも、ありのままの自分で精いっぱい生きる本当の生へと招かれていることを覚えます。感謝して、この祈りを主イエス・キリストのみ名によって捧げます。
アーメン。



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