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マタイ福音書を読む
                    菊池 淑子


律法(報復)の理解


『目には目を、歯には歯を』といわれていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。
マタイ 5章38〜42節

 

 「わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」(マタイ5・17)このように、イエスは律法が完全に守られることを求めています。しかし人間はその律法を完全に守ることはできません。守りきれないという限界を持ちながら、守ることに固執する時、人間はさまざまなほころびを持ちます。表面的に守ることをもって守ったことにして、自らを義人とする偽善と高ぶり、守ることができない境遇にある人を罪びと扱いにする傲慢・・・・そういう問題をいつも持っています。  
それに対して、イエスは、「しかし私はあなたがたに言う」というふうにしてぶつかって来ます。その言葉を前にした時、「私たちはそもそも罪びとだったのではないか。その罪を贖ってくれたイエスがいたから、十字架にかかったイエスがいたから義とされたのではなかったのか。すなわち十字架のイエスによって律法は全うされたために、神の前に立つことができるようになったのではなかったか」ということに気付かされます。そこで、それではその罪を赦された者としてこれらの戒めをどう聴くのか、という問いかけが生まれてくる筈です。罪を赦された者として殺すな、姦淫するなという戒めを聴く時、赦されたもの同志赦しあい、助け合って誠実に生きなさい、というメッセージを聴きました。誓うな、という戒めを聴く時、赦された者としてありのままの自分で神様の前に真実の心で立ちなさい。自分の思うところに責任を持って精一杯生きなさい、というメッセージを聴きました。今回の箇所はそのつづきです。
 「目には目を、歯には歯を」―――もう既に説教で何度も聴いているように、これは目をやられたら、怒りにまかせて相手を殺してしまうことのない様に、目に仕返しをするだけにとどめなさい、という戒めです。ここで神様は目をつぶすような悪に対しては断固としてNOを突きつけ、しかしそれ以上の仕返しに対してもNOと言い、秩序を守ろうとしています。この律法に対しイエスは、「しかしわたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。・・・・」と言っていますが、前回までに読んできたことの流れから考えると、「目には目を・・・」という戒めを全うすることを考えて「悪人に手向かうな・・・」と、イエスは言っていることが推察されます。逆に悪人に手向かい、目をやられたら目に仕返しをするように振るまったら、この戒め(すなわち正義が正義として認められ、秩序が守られるという神様のみ心)は全うされないと考えていることが分かります。
 実際に悪人に手向かったらどうなるでしょう?右の頬を打たれたら右の頬を殴り返したらどうなるでしょうか?相手は悪人ですから、もともと何の理由もなく殴り、盗み、虐げる者ですから、それ以上の攻撃を加えてくるでしょう。「悪いのは相手であって、自分は正しい」と言ったところで、結果として生まれてくるものは暴力であり、無秩序です。"暴力の連鎖"という言葉がありますが、現在も地球上の各地にそれがひろがっています。やはりこういう状況は神様のみ心ではありません。神様のみ心である正義と秩序はどのようにして実現しなければならないのでしょうか?
 "暴力の連鎖"を止めるためには誰かがやり返す権利を放棄しなければいけません。誰が?自分は嫌・・・・ここで一人の人が心に浮かんできます。イエス・キリストです。イエスはこの世から迫害されても抵抗せず、この世のすべての人の罪の贖いのために身を差し出した・・・すなわち右の頬を打たれても打ち返さず、左の頬を差し出したのです。この人の前に立った時、すなわち自分が罪びとであることを自覚し、赦された者であることを感じているならば、今日のみ言葉を文字通りに受け入れざるを得ないのではないでしょうか。
 今ここで「受け入れざるを得ない」と書きました。私は受け入れたくない気持ちでいっぱいなのです。私自身が傲慢で赦されたということが本当にわかっていないからですが、でも今ここで「さあ、クリスチャンならば左の頬も差し出せるようがんばらなくてはいけません」というメッセージを聞きたくないのです。私自身をそこに押し込めて良いクリスチャンとして生きようとすることに、どうしても違和感を持ってしまうのです。蓮見和夫先生が教会学校向けに「私たちの救い主」という本を書いており、私たち「真理」投稿者もこの本を参考に考えてみたら良いと言われているのですが、この先生がルカ福音書の今回の箇所と似た箇所について次のように書いています。
 「わたしたちは人に憎まれるとすぐ腹が立ってその人を敵にまわします。こうしてわたしたちの罪が毎日のように敵をこしらえてしまいます。しかし、イエスの愛は敵を愛し、憎む人に親切にして私たちに反対する人まで味方にし、友達に変えるのです。敵を相手にしないというだけでなく、ほんとうに真心から尽くして親切にし、祝福します。ほっぺたを打たれてももうひとつのほっぺたを向けて、こちらも打ってください、というほどその人を愛したら罪に打ち勝つことができるでしょう。」
 この説教は教会学校の子供たちにはためになる良いお話かもしれませんが、たとえばその中にひどいいじめに遭って苦しんでいる子がいたら、この説教は余りにも惨酷ではないかと思うのです。「やめて!」と叫びたい、仕返しをして同じことをされたらどうなんだとわからせたい、でもそんなことをしたら更にいじめはひどくなる、唯ただそのことにおびえ、抵抗できないということで自分の勇気の無さを自分で責めるようになり、いつのまにか自分が悪いことをしているかのように感じてしまう、そんな中で苦しんでいる子に、できないきれいごとを言うことは、私にはどうしてもできません。
 恐らくイエスの時代にこのイエスの言葉を聞いた人たちも、教会学校のような環境の中ではなく、虐げる者、奪う者がいる中で、抵抗しても所詮無駄な抵抗に終わるばかりか、抵抗すればその何倍も仕返しされるという境遇の中でこの話を聴いていたと思います。一般的に右利きの人がはじめに右の頬を打ったということは手の甲で打ったということですが、手の甲で頬を打つとは最大の侮辱行為であると言われています。それを耐え忍ばなければならなった人々ではなかったでしょうか。1マイルを行かせる話は、多分ローマの官憲に強いられて強制労働をさせられている状況を前提に話されているのだろう、と言われています。暴力や金の力や権力で縛られ、無抵抗の状況にさせられている人々、牛馬のように扱われていた人々がこの話を聞いていたのではなかったでしょうか。このような人々にイエスは、蓮見先生のように、良きクリスチャンとして生きなさいと語りかけたのでしょうか?
もっともっと深いところに呼びかけていたのではないでしょうか?この箇所で以前、士反先生は次のような説教をなさいました。
 「・・・・1マイルは強いられて歩く1マイル、しかし後の1マイルは自らの意思によって歩く1マイルです。下着は無理やり強要されて与えざるを得なかったものであるけれど、上着は自分の意思で与えるものです。これらは誰からも強いられない自由な意思で、自ら決めて行うことです。だから、この話を聞いたなら、自分の足で、自分の決めたことに、粛々と歩いて行くのではないでしょうか。」と。
 そうなんだ!これは従うべき倫理や道徳というよりも、「神様によって生きる生」への招きではないだろうか。虐げられている状況の中で、人は無力感にとらわれ、どうでもいいやと思うようになり、自分の人生や境遇を呪い、心がすさんで行きます。でも、自ら決断した一歩を踏み出す時、同じ道を歩くという行為の中で、自分の意思を実現する喜びが生まれ、苦しみの中にもその苦しみから学び、工夫する知恵も湧いてきます。そして、自らの意思で1マイルを歩く、その一歩一歩が神様のみ心の実現につながっているという喜びに満たされます。強いられて歩く最初の1マイルはただつらいだけ、歩き終わった時はへなへなと倒れ落ちるだけですが、自らの意思で1マイルを歩き切った時は、ゴールのテープを切るような気持ちになるのではないでしょうか。「どんなにつらい虐げの中にあっても、そこでも人間らしく生きられるんだよ」と、イエスは言いたかったのではないでしょうか。今、私たちは敵、虐げる者を強く意識することはありませんが、たとえばアメリカの南北戦争以前の南部の黒人奴隷たちは、このイエスの言葉によって人としての尊厳を取り戻したのではないでしょうか。黒人達のゴスペル・ソングが哀しみの中にも喜びに満ちているわけがわかるような気がします。
 イエスの時代の虐げられていた人々も、イエスの言葉によって暗闇の中に光を見たのでしょう。その光によって生きることが出来たのでしょう。同じ話を今私たちも聞いています。私たちは別に虐げの中にあるわけではありませんが、その人々と同じように、自ら考え決断して、自分の人生を選び取って生きて行くよう促されているのだと思います。

祈り
いついかなる時にも、あなたは私たちを本当の意味で人間らしい生き方へと導いてくださいます。あなたにあって生きる、その喜びの中で成長し、あなたを賛美し、あなたのみ心を実現する者へと変えられますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。



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