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マタイ福音書を読む
                    菊池 淑子


律法(誓う)の理解


「また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果たせ』といわれていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」。
        
マタイ 5章33〜37節

 

 先回は「姦淫するな」、先々回は「殺すな」ということについてお話しました。「殺すな」は十戒の第5戒、「姦淫するな」は第6戒として与えられたものですが、律法学者達は表面的に守ってそれで立派な信仰者と思い高ぶっていました。それに対しイエスはその心を問題にしました。お前達人間の中でこの律法を本当に守れるものがいるのか、と問いかけてきます。罪がないのに自らの死をもって私たち人間を赦そうとするイエス、そのお方の前で自分が律法を守っている義しい人間であると言える人が果たしているのでしょうか。「お前たちは皆一様に罪人ではないか。イエスの赦しを必要とする者ではないか。それならば皆差別なく助け合って生きなさい。互いを生かす者として関わりあって生きなさい。」というのがこれまでに聞いてきたメッセージでした。
  今回の箇所も「偽証してはならない」「神の名をみだりにとなえてはならない」という十戒の箇所に関連しています。律法を守れない人間の問題、それを誓いによっておおいかくそうとする偽善、欺瞞に対し、イエスは「誓ってはならない」と言っています。誓うのではなく、唯、「然りなら然り、否なら否」というように、自分の言葉に誠実に生きなさい、と言っています。このことについて、聖書の流れに沿って見て行きたいと思います。
イエスが問題にしているのは「偽り誓うな。誓ったことはすべて主に対して果たせ。」という戒めですが、これは十戒にはなく、レビ記19章12節の「わたしの名により偽り誓ってあなたがたの神の名を汚してはならない」からきたものと思われます。モーセの十戒に「あなたは隣人について偽証してはならない」という戒めがありますが、「神に誓ってそうだ」とか「神に誓ってそうではない」という言い方で偽って誓うことがしばしば行なわれた為に、このレビ記の戒めが人々に与えられるようになったのだそうです。これはモーセの十戒の第2戒「主の名をみだりにとなえてはならない」という戒めに基づいていることが分かります。当時の人々は、より厳格にこの戒めを守ることを求められたわけです。ですから、人々は今度は安易に誓うことは出来ません。神の名で誓うということは、絶対に守らなくてはならないということです。必ず実現させなければいけない、ほんのわずかでも嘘があってはならないということです。誓いを破ることは神への冒涜です。罰を免れず、滅ばされてしまいます。非常な緊張感をもって誓わなければなりません。
そこで人々は神の名で誓う代わりに、「天・地・エルサレム」に対して誓うようになりました。これならたとえ守れなくても神を汚したことにはならないだろう、というわけです。それに対してイエスは「天は神の御坐、地は神の足台、エルサレムは大王の都である」から、神の名において誓ったことと同じである、と言われます。そこで人々は「自分の頭をさして」誓うようになりました。誓いの保証としては少し弱いけれどそれなりに真剣に誓っているように受け取られるのではないか、これなら守れなくても神を汚したことにはならないし・・・・と、抜け道を考えたのでしょうか。しかしイエスは、「あなたは髪の毛一すじでさえ白くも黒くもすることができない」と言います。自分の頭であっても、髪の毛一本ですら自分で作ったものではない、すべて神の手の中にあるのだから、自分の頭にかけて誓ってもそれは神の名にかけて誓うことと同じなのだ、というのです。
そしてイエスは言います。「しかしわたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。」と。むしろ「あなたがたの言葉はただ、然り、然り、否、否であるべきだ」と。そもそも、誓うということは、既にそれが果たされないかもしれないという疑いがあるから、それを神にかけてとか、天地にかけてとかいう言い方でそれを補強しようとする、ということです。ですから、誓いの中には最初からごまかしの気分が入り込んでいます。誓うことによって神を偽り、天と地の主を偽り、神の都であるエルサレム、神の創られた頭を汚すことになる、だからそのような誓いはいっさいしてはならない、真実の心があれば誓う必要はないのだから、あなたがたは「ただ、然り、然り、否、否」といえば良いのだと、イエスは言います。
自分が然りと思うなら、然りと言った人間として、然りとなるように、然りとする生き方をしなさい。否と思うなら否と言った人間として否とする生き方をしなさい、即ち自分が思うところに責任を持って生きなさい―――この言葉は律法を守ることに汲々として、抜け道さえ考え出して表面的に守ることだけを考え、「真実の心で神の前に立つ」という姿勢を失ってしまった人々に対し、あなたの思うように行きて良いんだよ、あなたの真実の姿で神様の前に立ちなさい、という言葉に聞こえてこないでしょうか?
律法の重圧は人々に様々な問題を引き起こしました。本来真実であるべき誓約の言葉を軽くしてしまいましたが、それは即ち神を軽いものにしてしまったということではないでしょうか?また、髪の毛一本をも自由に出来ない人間が、「神、天、地、エルサレム、頭」をさして誓って、あたかもそれが出来るかのような物言いをすることは人間の分を超える行為で、自分を神の立場に置くことになります。これらのような意味で「それ以上に出ることは悪から来たのである。」と言われているのだと思います。

祈り
イエス様は私たちを律法の重圧から解放し、神様の前で真実の姿で立つよう促して下さっています。しかし私たちは、「ただ然り、然り、否、否」と言えば良いのだといわれても、そもそもその選択に迷い、恐れを抱き、その結果あいまいな、どちらともつかない言い方をしてしまいます。あの時自分が態度をはっきりさせなかった為に、傷ついた人がいる、見殺しにしてしまった人がいる、その人にだけ責任を背負わせてしまった、という経験があります。まして自分が選択した生き方に生き抜くには、本当の勇気が必要です。困難から逃げ出したくなる自分、他人に責任をおいかぶせたくなる自分がいます。しかし、そんな私たちに赦しを与え、死から立ち上がる勇気を与えて下さるイエス様を与えて下さったことを感謝します。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。


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