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マタイ福音書を読む
                    菊池 淑子


律法(殺すな)の理解

「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟に向かって愚か者と言う者は、議会に引き渡されるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。」
        
マタイ 5・21〜26
 

前回、「あなた方の義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ決して天国に入ることはできない」ということについて、「律法学者やパリサイ人にまさるとは、弟子たちがイエスにつながっていることによってイエスから賜物として与えられた義がより良いということである」、とお話しました。ですからイエスは、弟子たちの義が律法学者やパリサイ人のそれにまさる様にと、これ以後5章の終わりまで、殺すな、姦淫するな、誓うな、報復、愛の問題など重要な律法について、その真の意味を教えられました。こうした流れから考えると、それを理解するカギは十字架において律法を成就されたイエスにつながっていること、イエスとの人格的な交わりにあるということがわかります。すなわち、律法をキリストの言葉として聴く者だけが律法を成就することができるということです。「しかし、わたしはあなた方に言う」という、イエスの断言はこのことを踏まえた言葉だと思います。
イエスが教えられる一つ一つの律法を見て行く前に、そもそも律法の基である十戒はどのような神の真意だったのか、それを律法学者やパリサイ人はどのようにゆがめて来たのかということを、考えておきたいと思います。十戒のはじめに神は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」と言っています。「そういうわたしとあなたの関係の中で、あなたが私以外のものを神とすることはありえないよね。・・・・そのように私のあわれみを受け、生かされたあなたが他人を殺すということはありえないよね。むしろ私と同じように、苦しんでいる人を助け、生かすことを考えるよね。」というふうにして与えられたものです。しかし、律法学者とパリサイ人はいつのまにか、この神が為してくれたエジプトからの脱出に目を向けることを忘れ、神との人格的な交わりを失い、命令のひとつひとつを守ろうとし、又守りきれると高ぶってしまったのです。その結果律法は神の憐れみに対する応答ではなく、人を縛るものとなってしまいました。パウロが言っている様に、律法は罪を意識させ、死に至るものとして認識されるようになったのです。そして律法学者やパリサイ人はその様な律法を守りきれない病人、貧者、罪人を神の国から締め出して、共同体の交わりからも疎外してしまったのです。
律法の本来の意味を考える時、神の憐れみに目を向ける必要があったように、イエスの教える真の律法について考える時、イエスの十字架に目をとめる必要があることがわかります。律法を守りきれない私たちが神の怒りの前で立ちすくみ、もはや生きるすべを失って死んだも同然になっていた時、イエスが自らの十字架によって神との和解をもたらしてくれた、そのことに目を向ける時初めて、私たちはイエスの言う律法の真の意味を理解できるのではないでしょうか。私たちを神と和解させて下さったイエスの十字架をおぼえる時、私たちはもう他人に対して怒るのはやめよう、他人を赦そう、たとえ赦せない自分がいても、何とかそこから出て行こう、そしてどちらが良くても悪くても共に生きて行く者として他人と関わって行こう、と思うのではないでしょうか。
本当は、相手を殺すものであるという怒りの本質についても考察して、自分の現実として受けとめる必要があるのでしょうが、そこまでしなくてもこれでイエスの言わんとする真意を十分つかむ事ができるのではないでしょうか。「怒りとは・・・」ということに固着して行くと、かえって、「怒るのは良くない」といった単に道徳的に立派に体裁を整える事が中心になって、律法主義のワナに迷い込んで行く恐れがあります。人間は怒ることなくして生きて行く事はできません。むしろ怒りは他人と正面から向かい合うという意味では誠実です。時に怒りをぶつけあう事があっても仕方がないと思います。でも、イエスの十字架に目を向けた時、人は赦そうとするのではないでしょうか。
私たちは赦されて、「主イエス・キリストのみ名によって」神さまの前に立つ事ができます。赦されて礼拝することができます。その赦された自分が他人を赦さないまま神様の前に立つ事があるとすれば、もはやイエスとの人格的な交わりの中にあるとは言えません。「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみを抱いていることを、そこで思い出したなら、・・・・まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」というのは、このことを意味しています。私たちは礼拝に行く時、今週一週間自分はこんな悪い事をした、神様に赦しをお願いしよう、というふうに考えます。でもここでは自分の犯した罪については何も語っていません。自分が悪いか相手が誤解しているかわからないけれど、とにかく兄弟と仲たがいしている時は自分がイニシアティブをとって和解しなさい、と言っています。何も悪くないイエスが和解のために十字架にかかって死んだということに目を止めるなら、自分は何も悪くはないと言い張って、礼拝に出る事ができるでしょうか。
イエスは更に続けて、「あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。」と言っています。これまで読んできた事を考え合わせると、私にはイエスのこの言葉が次のように聞こえます。「あなた方が人生の道を歩いて行く時、この現実の人生を本当に真剣に生きて行くなら、そこであなた方は必ず罪を犯し、他人とぶつかる事もある、他人を赦し難い思いに駆られることもある、でもあなたも人間、その人も人間、私があなたを赦したように、あなたもその人を赦しなさい、たとえあなたがどんな人間であろうと私があなたを捨てなかったように、あなたも他人を根源的に侮辱したりせず、仲直りしなさい、そのイニシアティブをあなたがとりなさい。」
長くなりましたが最後にもうひとつ、「その途中で早く」ということにも心が止りました。「その途中で」ということは、その人生が終わらないうちにということです。終わってしまってからでは遅いのです。それは今しかありません。今なら、私たちは地獄の火に焼かれないように悔い改める時を持っています。そういう意味では今こそ恵みの時なのです。この言葉の前に立つ時、"今"という時をおろそかにしないで生きなければいけないと、改めて思わされます。

祈り
神さま、あなたは私たちを道徳的に正しい人間として生きさせるということよりも、罪を犯さなければ生きて行けない人間として私たちが互いに赦しあい、助け合ってそれぞれの人生を歩んで行く事を願って、私たちに今日の律法を示して下さいました。あなたの深い配慮に改めて感謝します。主イエス・キリストのみ名によって。
アーメン。


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