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マタイ福音書を読む
                    菊池 淑子


 「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取り戻されようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」
(マタイ5・13〜15)

 

イエスはみもとに集まった弟子達、群衆に対し無条件の祝福を与えた後、この箇所でキリスト者の機能を明らかにしようとしています。「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と。これらのたとえによってイエスはわたしたちの機能をどのようなものだと言わんとしているのでしょうか。

あなたがたは地の塩である

 塩の性質、働きとしては1、あくや苦味を抜き、ものの味をひきだす 2、味をつける 3、腐敗を防ぐ、ということが考えられます。「地」とはこの世のことです。ですから、「あなたがたは地の塩である」とは、「あなたがたはこの世の苦しみを抜き、この世が味わい深く、そこに生きることが意味あるものとなるようにこの世と関わり、又この世が腐ってしまわないようにする働きを担う」と、言っているのでしょう。特に「」の塩と言われていることは、この世から逃げて教会の中で信仰深く生きるのではなく、不正や偽りやねたみやそしりに満ちた逃げ出したくなるようなこの世ではあるけれどそこに踏みとどまって、塩としての役割を果たすことが考えられています。

 このことを注意深く考えてみると、塩のたとえの中にはもうひとつ重要な意味が隠されていることに気付かされます。それは、塩は塩のために存在しないということです。塩だけを食べる人はいないように、塩というものは「他の食品と混じったときに」その真価が発揮されるものです。私の利益、私の楽しみ、私の信仰、私の救いの為の熱心にとどまるとき、塩は何の役にも立ちません。役にたたないばかりか、それは塩を塩としてのみ食する場合のようなもので、激しいのどの渇きを惹き起こします。広く他と交わることが大切、他者と共に生きよ、他者と生きる苦しみや悲しみを共有し、互いに隣り人となって助け合う愛に生きよ、というメッセージも含まれているのではないでしょうか。これはイエスの教えの核心そのものです。「地の塩である」とはまさしくこの世におけるイエスの働き、イエスの生き様です。

あなたがたは世の光である

 光の働きはいうまでもなく、闇を照らすことです。ヨハネ福音書1・5ではイエスがこの世に来られたことを指して「光が暗闇の中で輝いている」と述べられていますが、この世は闇であると考えられています。そしてヨハネ3・19では「人々は・・・光よりも闇の方を好んだ」とありますが、闇の中で人は本当に生きることができるのでしょうか。暗闇のようなこの世の中では何一つ拠りどころとなるものが見えず、混乱し、衝突し、絶望するしかありません。そのような苦しみと邪悪に満ちた暗闇の中で一筋の光を見た時には、本当にホッとして息をつぐことができます。だから人は何とか生きて行けるのではないでしょうか。イエスはそのような光にたとえられています。「あなたがたは世の光である」とは、わたしたちもそういう光であると言われているのです。「その光を輝かせなさい。」とも言われています。

塩も光もイエスの働きです。こういう内容がわかったとき、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と言われると、思わず引いてしまいます。私にそんな立派な働きができるはずがありません。第一私自身塩気をなくしているどころか腐っているかもしれないのに。私はどちらかと言えば闇に属しているかもしれないのに。

またいつものパリサイ派的思考パターンに陥ってしまいました。これらの言葉は一見謙遜に聞こえますが、神さまの前に義人として立とうとしている者の言葉です。また、ここで注意しなければならないのは、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と言っているのであって、「地の塩になれ、世の光になれ」とは言われていないということです。

それは命令の言葉ではなく、恵みの言葉であるということです。そもそもイエスのみもとに集まってきた弟子達や群衆は「あなたがたは地の塩である、世の光である」という言葉をどう聞いたでしょうか、考えてみたいと思います。彼らはガリラヤの人たちです。「ガリラヤ」という地名が意味するイメージは見捨てられた地ということでした。マタイはイエスの伝道開始の記事で、イザヤ書から次のように引用しています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」と。すなわち、イエスのみもとに集まって来た弟子たちや群衆とは、神から見捨てられた民だったのです。ユダヤ教の世界にあってアウトサイダーです。本来神さまの恵みになど与れないのは充分承知しつつ、それでもなおかつおこぼれの憐れみに生きようとする人々でした。その人々に対してイエスは「あなたがたは地の塩である、世の光である」、あなたがたこそイエスと同じ役割を担う民であると宣言されたのです。

もし、私が同じような立場で、同じように言われたらどう思うでしょうか。私はどうせダメな人間で、この世ではもはや望みも無くただ生きているに過ぎない、何の価値もない、動物と変わらない生を生きるだけの人間だと思っていたのに、なんと神さまはもったいなくも重要な役割を期待しておられる、今こそその期待に応えて生きてゆこう、このような人間らしい、誇らしい人生を生きてゆくことが出来るなんてなんという幸せだろう!と、考えるでしょう。だから、彼らにとって「あなたがたは地の塩である、世の光である」という言葉は命令ではなく、恵みなのです。あきらめていた人間らしい本当の命にあふれた生き方を与えてくれる言葉だったのです。

彼らは投げやりになっていた人生から出て、たとえ状況は今までと同じであろうとも、自分に今与えられている人生を誠実に、また喜んで、しかし苦労は苦労として引き受けて、生き始めるのです。見捨てられているかのような環境の中から、死の陰の谷を行くような環境の中から、立ち上がって歩き始めるのです。

そのような姿を見て、他の人々はどう思うでしょうか。その姿を見て、人々はパリサイ派やレビ人の中にではなく、この弟子達や群衆の中にこそ神さまの力が働いていると思うのではないでしょうか。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」ということは、このようにして現実のものとなるのではないでしょうか。

ですから、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て」とある立派な行いとは、単に他人に親切にしたり、道徳的に正しく生きる、いわゆる立派なクリスチャンとして生きるということではありません。単に隣り人として生きるということでもありません。隣り人として生きるということはイエスの愛の教えであり、それを実行するということは大切なことですが、その基本には「他人と生きる」ということが共有されていなければなりません。他人を助ける自分だけでなく、自分もまた生きることに真剣でなければ、本当の意味で生を共有することは出来ません。もしそうでなかったら、そこにあるのは単なる親切であり、時にそれはおせっかいとなったり、逆にその人を傷つける傲慢さにすらなってしまいます。
 だから、ここで言われている立派な行いとは、私たちがキリストにつながって生きること、み言葉に従うことなど言い方はいろいろですが、具体的には財産や家柄や人間関係などの持ち物に頼って生きるのではなく、神さまの前で人間としての分を守って生きてゆくということなのではないでしょうか。そこでは不運も経験するし、悲しみ、苦しみも経験するでしょう。自らのずるさ、弱さも認めざるを得ないでしょう。しかし神さまはそういう私たちを赦し、慰め、励まし、その生すべてをひっくるめて祝福して下さっています。それゆえに私たちは倒れてももう一度立ち上がり、自分の人生を最後まで歩みとおすことが出来るのです。これが神さまが私たちに期待している生き方、立派な行いということではないでしょうか。

今までイエスの系図、誘惑物語、心の貧しい者への祝福、とずっとマタイを読み進んできましたが、このように考えるのが一番自然のような気がします。すなわち、いつも根底に考えられていることは、神さまが秩序づけた人間の本来性に従って生きることなのではないでしょうか。神さまの絶対性に従うという点で表面的には人間は不自由なように見えますが、実はこれが神以外の何者にも従属しないで、人間をもっとも自由にし、もっとも生き生きと生かす道につながるのだと思います。

祈り

神さま、あなたは私たちを、「地の塩、世の光」だと言って下さいます。私たちがあなたによって与えられた本来的な生に従って生きる、そのことの中で、あなたのみ心である塩の働き、光の働きがまっとうされる、とおっしゃっておられるのですね。そのように用いられていることに感謝します。あなたが私たち一人一人を解き放し、あなたが私たち一人一人を赦して下さっている、その解き放たれ、赦されて立ち上がった自分として、自分らしい人生を作り上げてゆくことが出来ますように。そしてそれを通して「地の塩、世の光」として用いられますように。主イエス・キリストのみ名において。アーメン。


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