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マタイ福音書を読む 菊池 淑子
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悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らはなぐさめられるであろう。 |
人は自分らしく生きている時、たとえ貧しくても、たとえ裏切りのさ中にあっても幸福であると感じられます。自分らしくとは、ありのままの自分が肯定されるということです。小さい頃から虐待されたり、親の歪んだ愛情の中に育てられた子供は依存的になり、自分を確立することが出来ないと言われます。私たちクリスチャンは、私たちそれぞれを丸ごと受け止めてくださる神の愛に触れて、たとえどんなに小さくてもたとえどんなに惨めな環境にあろうとも、そのままの自分として歩き出して行く力を与えられています。それは本当に、本当に、さいわいなことです。先回の真理では、「心の貧しい者」とは、そのような神に出会った人間、神を仰ぎ神の愛に生きる人間(それが創造主によって創り出された本来の人間の姿であり、神と人間との正しい関係である)、神によって生かされている本来の人間の命を生きている者であるということを述べました。このような前提に立つならば、「悲しんでいる人はさいわいである。彼らはなぐさめられるであろう。」以下の事は、自ずと分かってきます。
聖書はこの部分に限らず、他の箇所との脈絡の中で読まれなければならない、と士反先生から再三、言われてきましたが、この箇所も一つ一つを独立した教えとして読むのではなく、相互に関連しあうものとして、特にこの心の貧しき者を前提として読まれる必要があります。私たちを、身体は生きていても心は死んでいるような状態から、引っぱり出して下さった「神を仰ぎ、神の愛に応えて生きて行こうとする者(心の貧しき者)」は、この世とは同一ではあり得ません。この世のさいわいと呼ばれるものをすべて捨ててイエスに従った弟子たちがどのような状況にあったかを考えると、「心の貧しき者」が「悲しむ者」であり、「柔和な人」であり、「義に飢え渇く者」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和を作り出す人」、「義のために迫害される人」である、ということがわかるのではないでしょうか。
しかしその前に、「悲しむ者」以下の言葉の意味を明らかにしておきたいと思います。
「悲しむ者」とは、この世の外的な出来事で涙を流しているということにとどまらず、信仰者としての信仰の生活において、日々経験する内的な苦悶、悲嘆を意味する。
「柔和な人」とは、神と隣人に対して、その信仰と愛において、神の栄光があらわれること、隣人の徳が建てられることのみを願う者。自己の空虚な誇りや欲しいままの欲望は求めない者。
「義に飢え渇く者」とは、肉における自己と戦い、自己の罪の思いを弾劾し、ただ神のみ旨のみが行われることを欲する者。己が死に、聖き神が我において生きたもうことを求めるもの。
「憐れみ深き人」とは己の如く隣人を愛し、助ける者。
「心の清き人」とは、キリストの贖いにより罪より解放され義とされた――即ち福音により慰められた心を持つ者、福音により内的に聖化された者。
「平和を作り出す人」とは、神のみ旨にかなうことをすべて行わんとする者。
「義のために迫害される人」とは、人は不義を愛する、それ故キリスト者は人々と対立せざるを得ない。キリストのために人々に責められた者。
以上、鈴木正久先生が1942年に書かれた「山上の垂訓教案」から要約させていただきました。これらについてすべてをじっくり見てゆくことはスペースの都合上出来ないので、今回は「悲しむ者」についてのみ、それがいかにさいわいなことか、私なりに考えてみたいと思います。皆さんもご自分の経験や生き方と照らし合わせて、あるいは他の人々の生き方と照らし合わせて、上述のそれぞれの人がいかにさいわいであるか、納得するまで考えられたらいかがでしょうか。
鈴木正久先生の「悲しむ者」についての説明は、非常に高邁で、先生自身のキリスト者としての気概にあふれています。今私が参考書として常用している「信徒の為の聖書講解」によると、「悲しむ」という言葉には「死の痛み」をさす特別の言葉が用いられているそうです。即ち悲しみの極致が死であるということですが、イエスこそまさしく「悲しむ者」、私たちの為に悲しんだ者でした。そのイエスと出会われた鈴木先生には、もはや私たちが日常、自然的に感じる外的悲しみは余り眼中になかっただろうと思われます。「我が為に」悲しむ者は人間の自然的状態にはなかった悲しみを悲しむ者、イエスと共に悲しみを担う者ですが、イエスに従う者はそうあるだろうと、鈴木先生は考えています。実にその通りだと思いますが、私たちはこういう時すぐにパリサイ派的思考パターンに陥って、単に自分の欲望や不足が満たされないというような低いレベルの悲しみにとどまっていては駄目だ、もっと敬虔なクリスチャンにならなければいけない、というふうに思ってしまいます。しかし、この「悲しむ者はさいわいである。彼らは慰められるだろう」と言う言葉を、弟子達や群衆はどのような気持ちで聞いたでしょうか。お金が無くて食べて行けない、そのためにどれほど情けない思いをしたことか、病気のために自分の夢を断念せざるを得ない、信じていた人に裏切られた・・・・生きることにつきもののいろいろな悲しみ、単純に、生きることのつらさ、重さにうちのめされてただ悲しんでいる、そういう自分達に向かってイエスは意外にも「さいわいだ」と言う。誰が慰めなくても神が慰めて下さると言う。この言葉は弟子達や群衆にとって本当に慰めであり、深いところで癒され、生きる力となったことでしょう。
今回の箇所でイエスが言わんとしていることは、高レベルの悲しみを持つ者になりなさい、イエスと共に悲しみを担う者となりなさい、ということを命令しているわけではないと思うのです。十戒のように「〜でなければならない」と命令しているのではなく、神が慰めてくださる、その事実に目を向けなさい、神が慰められるが故に「悲しんでいる者」と言う存在そのものが祝福されている、その事実に目を向けなさい、と言っているのではないでしょうか?その時人は死の淵をのぞむ崖の上で向きを変え、歩き出させられます。さいわいな生、祝福された生を歩き出すのです。その生は自ずとイエスと共に悲しみを担うものとならざるを得ません。とは言え生きてゆく中で(というよりも生きて行くことから逃げないならば)、イエスを裏切らざるをえないこともあります。しかし、又、赦されて人はもう一度歩き出す、クリスチャンの一生はこうしたことの連続なのかな、と思うのです。
ところで、神さまはどのように私たちを慰めてくださるのでしょうか。もちろん、「神さまが慰められる」、そのことだけで十分です。神様のこの言葉は悲しみにうちひしがれている私たちの心を癒し、立ち上がらせ、私たちの背中を押してくれます。それはそれでわかるのですが、でもどういうふうに慰められるのかも考えてみたいと思います。
聖書の中では、息子を失って泣いているやもめには息子の命をよみがえらせ、病に苦しんでいる者には病をいやすというやり方で慰めを与えています。慰めの方法としてはとても分かりやすいです。
しかし、悲しみの中にあっての何よりものプレゼントは、悲しみの中にあってこそ神を見ることではないでしょうか。悲しみは神を仰ぐ踏み台ではないでしょうか。悲しみの中にあるとき、神の言葉は本当に命の底に働きかけてきます。そして、人は神を仰ぐ時(すなわち心の貧しいものである時)、たとえ悲しみの中にあっても生きられるのです。むしろ、その悲しみはその人の人生を輝かせるものでさえあります。このことは多くの芸術作品が悲しみの中で生み出されたことを考えただけでもわかりますが、たとえ立派な芸術家のように世間から賞賛されるような人生ではなくても、悲しみを背負って生きる時、人は悲しみの合間に至福の時を見出し、生きていることの喜び、輝きを経験するのではないでしょうか。それは悲しみから逃げる人生、悲しみの無い人生よりもすばらしいのではないでしょうか。
神さまは直接的にも慰めてくださいますが、このように言葉によって、私達が真に生きる者とされるのです。感謝です。
祈り
神さま、悲しみにうちひしがれている時あなたの言葉にどんなに勇気づけられることでしょう。あなたが祝福してくださる、慰めてくださるという言葉に賭けて歩みとおす人生を選び取らせて下さい。主イエス・キリストのみ名において。
アーメン。