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マタイ福音書を読む
                    菊池 淑子


 イエスはこの群集を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは、さいわいである、かれらはなぐさめられるであろう。
 柔和な人たちはさいわいである、彼らは地をうけつぐであろう。
 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう
 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神をみるであろう。
 平和をつくりだす人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国はかれらのものである。
(マタイ5章1〜10節)

 今回は有名な山上の垂訓と言われる箇所です。これに先立つ4章2325節で、「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。」と記されています。今回の箇所はその内容すなわちイエスが何を語ったのか、イエスが宣べ伝えた「神の国」とは何なのかを明らかにする、という構成になっています。

「イエスは群集を見て、山に登り・・・・」

 この前の箇所でイエスがガリラヤ伝道を開始した時、がリラヤをはじめそれ以外のあらゆる地方からおびただしい数の群集がイエスに従った、とありますが、主イエスはむしろこの群集を避けて丘に登ったと考えられます。そして、熱心な弟子たち(約70人ほどと言われています)がイエスの後について来た――その弟子たちに向かってこの山上の垂訓が語られました。

この群集とはどのような人々だったのでしょうか。何故イエスは群集を避け、弟子たちにのみ語ったのでしょうか。―――確かに群衆の中には、癒された者やその周囲の者たちなどイエスこそ真の救い主と思ってついてきた人がいたかもしれません。イエスの言葉と行為に心打たれて教えを聞く為にイエスを追い求めた人がいたかもしれません。しかし、大部分は単なる病気の癒しや奇跡を求め、名声にひかれイエスを見に来る人たちであったようです。そしてこのような権能を持つイエスこそローマを追い払い、ダビデ、ソロモンの栄華を再現してくれる人物という期待を抱く人々も多かったと思われます。しかし、これらこそ、イエスがあの悪魔の誘惑の中で断固として退けたことではなかったでしょうか。あの時悪魔は言いました。「もしあなたが神の子であるあるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。」、「下へ飛び降りてごらんなさい。」、「(この世の全ての国々とその栄華を見せ、)もしあなたがひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」と。これらの誘惑――現実的な生活の問題の解決が優先される救い、奇跡を求める信仰、この世の権力に頼る救い――すべてにイエスは否と言ったのでした。しかし今群集はまさにこれらのものを求めてイエスに従っているのです。イエスはここで本当の「神の国」の福音について明確にする必要を感じたのでしょう、そこでイエスは群集を避け、弟子たちにこの山上の説教を語ろうとしたのです。

ところで、群集と弟子のちがいは何でしょうか―――弟子たちもかつて群集の一人でしたが、イエスの招きに応じて、“捨てる”こと、“従う”ことを決断した人たちであると言えます。すなわち、この説教は、これまでの生活を捨て、イエスに従った人に語られた説教であるということになります。悔い改めてイエスの言葉と共に生きることを決断した人々に語られた教えであるということになります。

それでは、イエスは群集を見捨てたのでしょうか。群衆を無視して弟子たちにのみ語ろうとしたのでしょうか。―――「あなたは群集の一人ですか、弟子の一人ですか」と問われれば、私は洗礼を受けたとはいえ、また毎週礼拝に出たり、聖書研究に来ていたりするとはいえ、自分は群集の一人に過ぎないことを告白せざるを得ません。み言葉を良い加減に聞き、それに従って生きるという決断をあいまいにして生きている、そして究極的にはイエスを裏切ってしまう、そんな私の生き方は、聖書に描かれている群集の姿に見事に重なってしまいます。そんな弱い私をイエスは見捨てられたのだろうか?この読み方が正しいのかどうかわかりませんが、私は、イエスはこの群集を見てと言うこの1節にすがりたい思いで「イエスはこの私を見ておられる。無視しておられるのではない。この私に本当の神の国とは何かを示そうとしておられる。弟子たちを通して、弟子たちを私たち群衆の中に派遣しようとして先ず弟子たちにそれを教えようとしておられるのではないか」というふうに読んだのです。甘えきった読み方かもしれませんが、従いたい気持ちを持ちながらも従いきれない自分、そんな自分でも主イエスは何とか神様の前に立たせて下さろうとしていることを信じて、転んでももう一度立ち上がりたいと思うのです。群集の中の一人に過ぎないことを自覚しつつ、弟子たちと共に私もイエスの言葉を待ち望んでいます。恐らく群集もイエスと弟子たちを遠くから見つつ、イエスの言葉を待ち望んでいたのではないでしょうか。

この教えはイエスがしばしば丘を訪れて弟子たちに語られた教えの数々をまとめたものであると言われていますが、ここに描かれているような状況が現実にあったのでしょう。そこでイエスは口を開き――この言葉には現実の重みを感じます。「口を開く」とは、「決して聞き落としてはならぬ重大なことが語られた」という意味のユダヤ伝承による特殊な言い回しだそうです。イエスが口を開いて語りました。心の貧しい人たちはさいわいである 天国は彼らのものであると。文語訳ではさいわいなるかな心の貧しい者 天国はその人のものなりです。

今年私たちの教会の伝道集会にいらっしゃったバラさんこと榊原さんの口癖は「聖書の世界を味わってみなさい」です。本当は「さいわい」とか「神の国」とかいうことについても厳密に考えなければならないのですが、今はそのことは置いといて、バラさんの言葉に従ってこの情景を想像してみようと思います。

山上の垂訓の行われたところはガリラヤ湖をすぐ間近に見下ろせる丘の上、遠くに群集が見守る中、みもとに近寄ってきた弟子たちに囲まれたイエス、大切なことが語られるという予感を持って弟子たちは耳を澄ます。イエスの発した第一語は「さいわいなるかな」でした。(何人かの方の本に依ればそのときの言葉の効果としては文語訳のほうが良いようです)

あなた方はさいわいなんだよ――弟子たちや群集はこの言葉を聞いてどう思ったでしょうか。いったい彼らはそれまで自分たちがさいわいだと思って居たでしょうか。当時、ローマの支配下にあって搾取され、ユダヤ人社会の中にあっても貧しく虐げられていた人々、病に苦しんでいた人々、弟子たちは更にそのささやかな生活さえ捨てた真に貧しい人々でした。いったい自分たちのどこがさいわいだというのだろう、彼らの誰しもがこの一語に驚いたのではないでしょうか。そしてそれに続く言葉には声も出なかったのではないでしょうか。
さいわいなるかな 心の貧しい者

 普通さいわいな人と言えば、お金、地位、健康、友達や才能に恵まれている人を思い浮かべるのではないでしょうか。そういう現実的なことにとらわれず、神を求める人々であったとしても、律法を守る人、ダビデを継ぐ者、神を拝む者、悔い改めた者のような人が神の祝福に与れると考えるでしょう。しかし、イエスは「心の貧しい者」だというのです。この言葉の考察は次回に譲るとして、とにかくさいわいが自分の手の届きそうなところにあるという感じを抱いたでしょう。続く言葉、悲しんでいる人たち、柔和な人たち・・・にもやはり同じ感覚を持ったでしょう。

これらについても次回でもう一度深く考えてみたいと思いますが、とにかくイエスが宣べ伝えようとしている「神の国」の本質は、「〜すべし」という命令を守る「義」ではなく、満ち足りたよろこびにあふれた「在り方」であり、生き方であるということです。命令を守って入る所が神の国ではなく、「さいわい」ということが既にある、神さまの赦しとして、恵みとして「さいわい」が与えられているというのです。バラさんはこんなことを私に言ったことがありました。「クリスチャンであってもなくても、神さまはあなた方のところに来ているんだよー、神様はあなた方をいつも支えて下さっているんだよー、ただあなた方がそれに気がついていないだけなんだよー」。

人間の思いに関係なく、神さまは日夜働いておられるのだから、神さまによって造られた人間は人間として、神さまが支えて下さっていることに信頼して、精いっぱい生きてゆけばよいのだということなのでしょうか。それに気付いて生きる勇気をもらうこと、喜んで生きるということが信仰なのでしょうか。こう考えてくると、三つの誘惑物語の中で、イエスが徹頭徹尾人間であることを選び取ったことが思い出されます。

人は本当の意味でその人になった時、何はなくても幸福であると感じることができるものですが、本当の意味でその人()になるとはどういうことでしょうか。いろいろのレベルで「これが私」といえる状態はありますが、もっとも深い意味では、神との関係が正しい時、すなわち神によって造られた人として生きる時幸福になるということでしょう。そして、それが神の国の本質です。旧来、律法を守ることによってしか、すなわち義人としてしか神の国に入ることはできませんでしたが、ここでイエスは神の国とはそういうものではなく、神関係が正されている世界であるということを示しました。「心の貧しき者」以下は次回に改めて考察したいと思いますが、結論を先に言えば、「神の国」への足場はそこにあるということではないでしょうか。

祈り
神さま、私たちは人としての分を越えようとする問題を持っている者です。しかし、赦されて本来あなたに造られた者としてあなたの前に立つ時、そこには永遠の幸福と安らぎがあると告げられました。人間としての限界を持っていること、ありのままの自分であることがいかにさいわいであることか!なぜならあなたが支えて下さり、あなたが神の国に招いて下さっているからです。 主イエス・キリストのみ名によって感謝します。アーメン。


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