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マタイ福音書を読む
 荒野の誘惑(その2)      菊池 淑子


 さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベタイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
(マタイ 4章1822節)

 

荒野において悪魔と対決する中で自らの使命を確信したイエスは、ガリラヤのカペナウムで伝道を開始します。そしてイエスは福音の宣教の使命を果たさせる為に、12人の弟子を選びます。マタイ福音書によれば、最初の弟子はペテロとその兄弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。イエスは彼らに言われます。「私についてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と。彼らは網を捨て、又、舟と父とを置いて、すぐに従って行きます。

この箇所を読むとき、誰しもがとまどいを覚えるのではないでしょうか。そんなに簡単に自分の生活を捨てられるのだろうかと。彼らが毎日毎日をどのような気持ちで過ごしていたか-はわかりません。死と隣り合わせの危険な仕事、一匹の魚もとれないこともあり、つらい毎日であったかもしれません。日々あくせく働くことに無意味感を覚えることもあったでしょう。しかし、まがりなりにも漁師として生計をたて、家族を養い、又家族と共に働き、何がしかの財産を蓄えていた彼らです。厳しい漁師の仕事には苦しみがあったかもしれませんが、それと共に労働の喜びもあり、苦楽を共にする家族や雇い人たちとの捨てがたい心の触れ合いがあったのではないでしょうか。にもかかわらず、彼ら4人は、マタイによれば、いとも簡単にその生活を捨ててしまったのです。普通なら、そういう大事なことを決める時には、大いに悩むのではないでしょうか。いろいろなことを考慮し、ついて行くに値するかどうか考えるでしょう。

ルカ福音書を読むと、そのときの事情がもう少し詳しく述べられており、どうして彼らがついて行ったのか何となく納得できます。ルカ福音書では、この弟子の召命記事の前に、イエスが会堂で宣べ伝えたこと、汚れた霊を追い出したこと、又シモン(ペテロ)の姑や多くの病人を癒したことなどが書かれています。そして又、シモンはイエスの言葉に従って網を下ろし、大漁を経験します。これらを通して彼らはイエスがただならぬ人であることを感じ取っていたはずです。このようなことを経験して従って行こうと決意したのであって、いきなり「ついてきなさい」と言われて従ったのではないことが想像されます。

又、ヨハネ福音書によれば、ペテロの兄弟アンデレとヤコブの兄弟ヨハネは洗礼者ヨハネの弟子だったとあります。おそらく彼らは日頃から何か満たされない思いを抱え、本当の生き方、やりがいのあることを捜し求めていたのでしょう。ヨハネがそれに応えてくれる人かもしれないと思って彼の弟子となっていたのでしょう。そしてある日、その師ヨハネの「見よ神の子羊」という言葉に強く打たれてイエスについて行き、イエスのところで一晩過ごし、多分ここでイエスといろいろなことを語り合って、「イエスこそメシアである」と思った二人は、それぞれの兄ペテロ、ヤコブをイエスのところに連れて行ったということが書いてあります。このように実際は、イエスと弟子の出会いがマタイ福音書が述べているように唐突ではなく、弟子の側にも求めがあってイエスといろいろな交流があって、弟子になっていったということがわかります。

しかるにマタイは何故このようなことを説明しなかったのでしょうか?おそらく、マタイにとってはこれだけで十分だったのでしょう。おそらく、マタイにとってはこれだけが大切なことだったのでしょう。そもそもマタイとは、最初に「マタイによる福音書を読む はじめに 」の所で述べたように、徴税人であったかどうかは別として、誰からも軽蔑され、自らも自分の生き方を心から肯定できないでいた時、イエスに出会い即座にイエスに従う者となった人であったと思われます。そのような人にとって、イエスに従う理由として、「イエスに出会ったこと」以外にいかなる理由も要らないのです。イエスの愛の人格そのものが自分に出会ってくれた、その出会いはマタイの人生を180度変えてしまった、死んでいた自分が生きる者になった、そして従った・・・・・そのことを表現しようとすれば18節から22節のこの文章で十分ではないでしょうか。「それまでの生活を捨てる」ということはマタイの意志ではありますが、イエスとの出会いがなければ起こらなかったことです。もう一度言うと、マタイにとって大切なことは、「主イエスが出会って下さった」「その結果従う者とされた」という「神の一方的な働き」だったのだと思います。だからペテロらの場合を説明する際も、マタイの目はイエスに出会う前の弟子側の事情やイエスに出会ってから召されるまでのいきさつ、時間の経過には注がれていません。マタイとしては、「神の一方的な働きである」ということ以外に何もつけ加える必要はないし、何も削る必要もなかったのでしょう。

私たちは聖書を読む時、つい「何をすればよいのか」ということを考えがちです。この箇所も「すぐに」ついていかなければいけないのだ、ぐずぐずとためらっているのは良くない、というふうに律法的に読んでしまいます。確かに「すぐに」「捨てて」ということは大切なことですが、そこだけに目が行くと「神が出会って下さった」ということ、「その出会いは私たちをしてそれまでの生活を捨てて歩き出させるものである」ということがかすんでしまうような気がします。今回の箇所はマタイ1343節の、畑に宝物を見つけた人が持ち物をすべて売り払ってその畑を買った、という話と相通じるものがあるのではないでしょうか。

祈り

神様、主イエスが私たちに出会う時、私たちの人生は180度転換させられます。その出会いは平々凡々とした生活、あくせくとした毎日、悲しみや裏切りに満ちた無意味な現実から私たちを立ち上がらせます。主イエスによって示されるあなたのメッセージこそ私たちを生かすものです。弟子たちがこの宝物に出会った時、それはすべてに勝るよろこびであり、もはや生活のすべてを捨ててでもイエスに従って行ったように、私たちにもその出会いが起こりますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


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