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マタイ福音書を読む
 荒野の誘惑(その1)      菊池 淑子


さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
       (マタイ4・1〜4)

 前回はイエスの受洗についてでしたが、その際イエスは父の声を聞き、御霊によって「神の子」としての自分の使命を確信しました。そのイエスを御霊は荒野に導き、悪魔の誘惑に会わせたというのが、今回のお話です。イエスは荒野で四十日四十夜断食し、「神の子」として何を語り、何を行い、民衆に何をもたらすべきかということを、祈り求めました。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」という言葉でイエスを特別な者として仕立て上げようと誘惑しますが、その誘惑と戦う中でイエスがつかんだ答えは、徹頭徹尾人間として生きる ということでした。

  このことについて具体的に見てゆきたいと思いますが、その前に第四章の1〜2節は、マタイによる福音書の特色を良くあらわしているということに、注目したいと思います。以前、マタイはユダヤ人に向けてこの福音書を書いたということをお話しましたが、「四十日四十夜」という言葉を聞いた時、ユダヤ人なら誰しも旧約聖書のいくつかの場面を思い浮かべ、旧約の登場人物たちが「四十日四十夜」を経て、神によって新しくされ、神の新しい啓示を受けた事を理解することができます。又、「荒野」という言葉も、ユダヤ人にとっては特別なことを想起させる言葉です。カナンに入る前の四十年間荒野をさまよったこと、そこで育った新しい世代のみがカナンに入り、王国を築いてゆく歴史の担い手となり得たこと、又、ユダヤ人にとって「荒野」は神との出会いを体験した場所でもありました。マタイは、イエスが救い主としての新しい神の約束を告げる生活を歩み出した事を述べる前に、これらの言葉を置くことによって、「旧約以来の神の約束が成就する、そういう歴史の経過の中にあなたがたはいるのですよ」というふうに、ユダヤの民に語りかけたかったのではないでしょうか。私たちもこの話を、マタイが意図したような脈絡で聞く必要があるのではないか、昨年榊原さんが講演の中で言わんとしたこともこのことでなかったかと思います──即ち、神の遠大なご計画の中に自分がすっぽりと包まれて、神の大きな愛を感じ、その中で小さい自分ではあるけれども、自分の生を精いっぱい生きてゆけば良いのではないかと。そこに、小さくても神にあって大きくされる喜びが見出されます。

 さて、イエスは試みを受ける前に、「荒野における四十日四十夜の断食生活」を経験しました。岩石だらけの荒涼とした沙漠、日中はコンロの上のフライパン状態だと言われる暑さの中で、陽射しを避ける一本の木もないところ、夜は氷点下の寒さで毛布やテントもなく、猛獣やマムシの生息するところ、水もなく野蜜や蝗すらないところで四十日四十夜を過ごしたイエスは心身ともに衰弱し、幻覚にもおそわれたことでしょう。しかも、イエスはここに修行の為自ら納得して行ったわけではありません。ルカ福音書によれば、「御霊にひきまわされて」強いられてこれらの苦しみを味あわされたわけです。そのもっとも弱い時に最初の悪魔の試みが為されました。

もし、あなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい

 私たちがもしイエスと同じ状態にあったら、この言葉をどのように聞くでしょうか。「私は神の子である。石をパンに変える力が与えられている。石をパンに変えれば自分の空腹を満たすことができるのはもちろん、今飢えている多くの人々の苦しみを救ってやれるのではないか。飢えの苦しみ──そのために古来どれだけの人が苦しんできたことか、飢えのためにある者は奪い、ある者は殺し、ある者は裏切り・・・・石をパンに変え人々を飢えから解放したなら、人々はそのような罪を犯さずに済む。私はまさしく人々を罪から救うことができる、これこそ私に与えられた救い主としての使命ではないか?」

 しかしイエスは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」と言って、きっぱりと否定しました。私が読んだ本や、よく聞く説教では、「人はパンも必要だけれどそれだけでは真の生命を生きることができない。み言葉によって生きることが大切である」というふうに語られていました。確かにその通りなのですが、「み言葉によって生きる」ということがあきらかにされないまま、抽象的に神を求める心が大切、信仰が大切というところにとどまっている説教が大部分でした。しかし、この箇所についての士反先生の説教は明快であり、鮮烈でした。
 神の言葉というと私たちは先ず十戒を思い浮かべますが、この十戒を守って生きることが神の言葉に生きるということなのでしょうか? 十戒は確かに大切な神の言葉ですが、十戒の一つ一つ、十戒から派生した多くの戒めをきっちりと守ろうとする時、いつのまにか戒めを守っている自分に目が向けられ、そもそも神様は私たちがどの様であって欲しいと思っておられるのか、が忘れ去られてしまいます。父なる神は、御子イエスを死に渡してまで、私たちを束縛しているものから解き放とうとしたのです。私たちが本当の自分として自分らしく自由に生きることを妨げているもの――貧しさや社会的差別や病気や様々な悪条件、それらにすっかりとらわれてしまって一歩も前へ進むことのできない私たちを、神様は解き放とうとしているのです。「どんなに小さくても、弱くても、貧しくても、たとえ罪にまみれていようとも、お前はお前だ、そのお前として起ちあがれ」と、言葉をかけて下さっています。その神の言葉に起ちあがって歩き出すこと、それが神の言葉に生きることだと、先生は説教の中で語りました。

束縛していたものから解き放たれる――即ち自由な者として生きよ、と神様は語っています。神様から与えられた自由な自分として生きるとは、他人の言いなりにならないで自分のやろうと思ったことに自分のすべてを投じて完全燃焼してみよ、ということではないでしょうか。自分の意思を貫いて生きてごらんなさい、と士反先生はおっしゃいました。

神様が私たちをかけがえのない自由な一人一人として立たせしめたいと思っている事がわかった時、私たちは本当に“隣人として生きる ”という、十戒の中心を守ることのできる人間になり得るのではないでしょうか。なぜなら、私たちが自分のものを自分のものとしてのみ用いるのではなく、他の人々と分ちあう時、本当の意味で私たちは互いに自由になることができるからです。

イエスは悪魔の第一の試みを退け、「神の子」としての特権に生きる生き方を退け、人間の座にとどまったことにより、これまで述べてきたような意味で、「私たち人間を神の言葉に生きる者へと招く」という使命を確信していったのです。



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