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ルカによる福音書を読む
6             五十嵐 弘美


 バプテスマのヨハネ

荒れ野で呼ばわる者の声がする。「主の道を整えまっすぐにせよ」。(4節)
(ルカによる福音書3章1節〜14節)

この個所で登場しているヨハネとは、マリアが訪ねて行った叔母のエリザベトさんのお腹にいた赤ちゃんが大きくなった人です。マリアが来た時お腹の中で踊って喜んでいた、あの赤ちゃんが成長した姿です。
 この頃、ユダヤの国はユダヤ人の王がおさめていたのではなく、ローマに支配されていました。ユダヤ各地はユダヤ人が治めていましたが、それを監督をおいて管理させていました。それがピラトです。ユダヤ人はローマの法律によって、とても払い切れるような額ではない税金を取られたり、ちょっとした事ですぐ処刑されたり、ユダヤにとっては大変辛い時代でした。昔から預言者が言っていた「メシア」が現れて、自分達をこのローマの支配から解放してくれるのはいつなんだろう、早く本当の王が現れないだろうかと、強く願っていました。
 そんな時にヨハネが現れたのです。ヨハネの風貌についてはルカ書には書いてありませんので、マルコ書の同じ個所を見てみます。「ヨハネはラクダの毛衣を着、腰に皮の帯びをしめ、イナゴと野蜜を食べていた」、とこれだけの表現なのですが、当時のユダヤ人にとって、ものすごくインパクトの強い容姿ですし、行いであったはずです。彼はいなごと野蜜が好きだったというのではなく、いっさいの贅沢を排除し、律法を究極まで厳しく自分に課した生活だったのではないでしょうか?そしてその語る言葉もまた、耳さわりのいい優しい言葉ではありませんでした。うわさを聞きつけて大勢の人が彼のもとに集まって来た時こう言いました。「マムシの子らよ、斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げこまれる」。ローマからの解放を切望し、ヨハネのスター性に大きな期待を抱いてやって来たユダヤ人にとって、脅迫めいたこの言葉におびえるどころか、喜んだのではないでしょうか?預言者イザヤが「荒野で叫ぶ者が現れるよ」と予言していた通り、いよいよその時が来たんだと思ったでしょう。
 ヨハネは厳しい言葉で「悔い改めよ」と言っていました。自分はユダヤ人だからとか、律法もそこそこ守っているし、お祈りも規定通りやってるから大丈夫などと思っていたらダメだといっていました。うわっつらの清らかさをとりつくろってもダメだと言っているのです。さあ、ユダヤ人たちは焦りました。「じゃあ、いったいどうすればいいのですか?」と聞きました。
 一般人が聞きました。ヨハネの答えは「下着を2枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ」。徴税人には「規定以上のものは取りたてるな」といい、兵士には「だれからも金をゆすりとったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言いました。
 ヨハネは立場の違う人に、それぞれ違うアドバイスをしました。私は「満足せよ」がとても心に響きました。人間の欲望には限りがなく、ひとつを手に入れてもまた次が欲しくなります。年齢とともにその辺りのコントロールもできるようになってきましたが、「これで我慢しよ」ではなく、「これも与えられている、あれも与えられた」と考えられたら、人から余分に取ろうと思わず、人をうらやんで卑屈になることもないでしょう。「悔い改める」というキーワードは聖書に何度も登場しますが、ここでもう一度その意味を確認できました。悔い改めて生活するというのは「ごめんなさい、赦して下さい」といいながら生きるのではなく、神様に「与えられたもの」を意識する生活。もっと「神様の存在」にフォーカスすることが私にとっての「道を整える」作業と考えたらいいのではないかと考えました。どのみち私たちはうわっつらしか義人ぶることはできないのです。力のない弱いつまらない存在として、どっぷり神の与えたもうたものに浸かって、喜んで生きてられたら最高だと思います。




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