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ルカによる福音書を読む
5             五十嵐 弘美


 十二歳のときのイエス様

どうしてわたしを探したのですか?わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか?
(ルカによる福音書2章41節〜52節)

イエス様は子供のころ、どんなお子さまだったんだろう……そんなことを想像したことはありませんか?今日の個所は、少年時代のイエスさまを知ることができる数少ない聖書の部分のひとつです。
 時は過越祭のころ、イスラエルの三大祭りのひとつであるこのお祭りでは、イスラエル人がほとんどみなエルサレムにやって来て、神殿にお参りするという慣わしです。
 ユダヤの人にとって、大事な出来事を記念するお祭りですから、一家そろって、いや一族郎党親戚縁者みな一団となってエルサレムで数日を過ごします。帰路もやはり団体旅行です。ところが、一日分の道のりを帰って来て、ようやくエルサレムにイエス様を置いてきぼりにした事に母マリアは気付きます。「遅くない?」という気はしますが、よほど大人数の、顔見知りばかりの団体ですから、「きっと一緒よ」ぐらいの確認しかしなかったのでしょう。我が子がいないとわかった時、マリアはどんな気持ちだったでしょう。「もし自分だったら……」と思うと胸がしめつけられます。気も狂わんばかりに取り乱すでしょう。探してさがして、必死で探しながら三日もかかってエルサレムに着いて、ようやくイエス様を発見します。なんとそこには、置いてきぼりに会って困り果てている十二歳の少年ではなく、神殿で学者たちを相手に問答している賢こそうな若者がいるのです。
 私はマリアもヨセフもかなり怒ったと思います。ほっとすると同時に「なぜこんな事に!」と怒りがわき起こるのは自然の感情だと思います。思わず「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(48節)と言いました。それに対してイエスさまは何と答えられたかというと、親の心子知らずとはこのことで、「どうしてわたしを捜したのですか」と言われました。それは捜すという行為が「まったくおかしい行為だよ」と言わんばかり。その上、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」と言いました。
マリアが言った「お父さんも」の父はこの世の父、ヨセフですが、イエス様が父と呼んだのは「父なる神」の父です。このことは、母にとってものすごくショックだったと想像します。いやがうえにもマリアは天使の言葉や、神殿で出会ったシメオン老人の予言を思い出さずにはいられないでしょう。我が子とはいえ、イエス様は普通の子供とは違う運命を背負っていることを。親子仲良く親戚にも見守られて平和に暮らすより、「父の家=神殿」にいる方が本当の姿だということ。「主イエスの母として、自分の心臓を、自分の心を、剣でもって刺し貫かれる、そのような思いをしなければならない」とシメオン老人は言いました。その第一回目がまさしくこれではないでしょうか。
この後の聖書物語を読んだ私たちには、イエス様が救い主の運命として十字架にかかられて殺されることを知っていますから、なおさら残酷なつらいお話しに思えます。でもわずか12歳の少年イエス様は「それがあたり前」なのだよと、おっしゃっているのです。
 いつも聖書の中で、私たちが思っている「あたり前」や「普通は」といった概念はイエス様によって否定されてしまいます。この時もマリアもヨセフもイエス様の言葉の意味がはっきりと理解できなかったようです。マリアはそれらを「心に納めておく」ことにしました。親子の関係の中で今日の個所を読むのは、辛くて受け止めがたいものですし、まだまだ私には実感を持って理解できない聖書のことばがたくさんあります。私も、少年イエスが背負った運命が何のためのもので、その意味は何なのか、はっきりわかる時が来るまで、心に納めて、また引き続き聖書に向かうことにしたいと思います。

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