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ルカによる福音書を読む 4 五十嵐 弘美
シメオンの讃歌
| 主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます (ルカによる福音書2章22節〜39節) |
マリアの子供として地上に与えられたイエス様がお宮参り(のようなもの?)に行かれた時の出来事です。そこでシメオンという名の老人がいて、イエス様と出会って言ったことばがこれです。この10節の文言を読んだ時、「あれ、どこかで聞いたような……」と思いました。そう、礼拝式文の中のヌンク・ディミティスです。あれは礼拝に集められた私たちが、神様から賜ったものをおのおの持ち礼拝堂を去って行く……というぐらいの意味と思っていました。しかし、シメオン老人にとっては「去る」はまさしくこの世を去る、死ぬことを意味するものであったとは。驚きでした。
シメオンは各福音書の中でもルカによる福音書にしか登場していないようですし、出番もたった1回、それも「これでやっと死ねるわい」と言っておしまいですから、かなり印象が薄い部分でした。いったいどういう老人でどんな意味があって福音書に登場したのか、じっくり読んでみました。
彼は「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいた人でした。そして「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と聖霊のお告げを受けていたのでした。若者が「あなたは死なない」と言われたら、生きることにかなり大胆になれますが、シメオンはどうも随分高齢のような感じを受けます。長く長く人生を生きて、しかも正しく篤い信仰も身につけた人にとって、現世に未練はなく、どちらかと言えば「死なない」のは「死ねない」という感覚ではなかろうかと想像するのです。
そんな思いで(勝手に決めつけていますが)毎日神殿でメシアがやってくるのを待っていた時、イエス様が来られたのです。といっても生まれて40日そこらの乳児です。なぜそれが「メシアだ」とわかったのでしょうか?聖書ではシメオン自身が「霊に導かれて神殿の境内に入って来た」と書かれてありますから、「今日は朝から予感がする!」というような状態であったのではないでしょうか?もう何年も老人はこの人(子)と出会うのを待っていたわけですから、それは「来たっ!」というような、沸きあがるような喜びであったことでしょう。
シメオンがイエス様を腕に抱いて思わず言ったのが「シメオンの讃歌」の部分です。「やっと死ねる」というものでは決してなく、お告げが実現したことの確信、虐げられたイスラエルの人々の希望をこの手で確かめたことの喜びが言わせた言葉だったのです。
おどろくマリアとヨゼフに老人はこんな事も言いました。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています」。イエス様が来られたことによって、救われる人もたくさんいますが、受け入れることができずにイエス様を十字架にかけた人もいたわけですから、老人は幼子の人生を予言したわけです。いいことばっかりではなく、マリアにとっては辛い出来事もある事もしっかり伝えました。
信じたからと言って、今後一切不幸なことにはならないとか、何があっても守られるとか、クリスチャンにはそんな保証はありません。それでも私たちは信じることを選び伝えたいと思っています。シメオン老人は、神様の約束を目で見て確認し、若い夫婦に託し、その未来を語り伝えた、この作業を終えた時、「仕事が終ったな」という深い安心感を感じたと思います。これが「安らかに去らせて下さる」という事の意味だったのではないでしょうか。
私にとっては印象の薄かったこの出来事は、17世紀の宗教画家によって作品となっていました。やはり大事な名場面だったのでしょう。、「真理」のおかげで、名画と出会い出来事を知る機会となったことを感謝します。
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