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 イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して命じた。「御前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。ここをたって、パンダ・アラムのおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から毛混相手を見つけなさい。どうか、全能の神がお前を祝福して繁栄させ、お前を増やして多くの民の群れとしてくださるように。どうか、アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神がアブラハムに与えた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように。」
 ヤコブはイサクに送り出されて、パンダ・アラムの羅番の所に旅立った。羅番はアラム人ベドエルの息子で、エサウの母リベカの兄であった。

創世記28章1〜5節
 ヤコブは逃亡の旅に出ます。その理由は、父イサクがヤコブを祝福したことをエサウが根に持った、と記されています。そもそもこのお話は、創世記においては母リベカに子供ができなかったのでイサクが主に祈ったことから始まりました。彼女は祈りが聞き入れられ確かに子を宿すのですが、胎内で子供たちが押し合うので御心を尋ねると、「二つの国民があなたの胎内に宿っており

 二つの民があなたの腹の内で分れ争っている。

 一つの民が他の民より強くなり

 兄が弟に仕えるようになる」

との言葉を聞くのです。それがとどのつまりは弟ヤコブが兄エサウから神の祝福を奪い取る原因となっています。しかし、そういう兄弟の権利の逆転が起こる理由は、ただ単に神さまの御計画によるというわけではないようです。つまり、神さまがそうしたからそうなったという人任せ的な預言ではないのです。エサウはどういう人間だったでしょうか。いくつか彼のことについて書いていますが、その中で注目するところは、長子の特権を一時の空腹で譲り渡してしまうところです。長子というのは日本でもそうですが、相続をする時に第一位の存在です。どこでそうなったのか古の世界の秘密は分かりませんが、わたしたちの中でも当たり前のこととなっています。古代オリエントの世界でもそうでした。今のような民主主義での選挙で決めるのではないわけです。そのようにして家が守られてきました。民の歴史がつながってきました。ですから長子の役割は大切です。しかし、そういう長子制度で保たれている世界においてエサウに代表されるように、軽々しい振る舞いがなされてしまうのも事実です。聖書はそういう世の問題に目を向けています。ヤコブとエサウの双子の物語での神さまの「兄が弟に仕えるようになる」とのご計画は、その世の問題に切り込む神さまのみ心が語られていると思われます。

 エサウは、ヤコブが長子の特権を手に入れただけではなく、父イサクから本来ならば譲り受けるはずの祝福すら奪い取られてしまいました。これで二度目です。そのことが彼の中にヤコブに対しての憎しみをもつようになりました。彼は父が年老いていますので死ぬまでは我慢することにして、父の亡き後ヤコブを殺す決心をします。そのことが母リベカの耳に入りました。リベカはこのことで起こるであろう殺し合いで二人とも失うことを恐れ、ヤコブをエサウが憎しみを忘れるまでの間旅に出すことにしたのです。

 しかし、ここにもう一つの理由も記されています。それはヤコブも結婚する時期に来ていることです。その際娘をめとるわけですが、カナンの土地の娘をめとることを母リベカは懸念します。その理由は、エサウがカンナの娘をめとりました。ヘト人ユディトとバセマトの二人です。現代人には「えっ、二人?」と思うわけですが、当時は自明のことでした。問題なのがこの二人です。ただ聖書には「彼女たちは、イサクとリベカの悩みとなった。」とだけ記されています。それに対応するかのようにリベカは「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中のあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません。」と思い、自分の兄ラバンの家にヤコブを旅立たせ、そこの娘の中から好きな娘と結婚するように旅立たせるのです。ヤコブもまたイサクと同じように、神さまの約束を相続するものとして、この土地の者からではなく、親族の中に妻を探す旅に出かけます。

 ですからヤコブの旅には二つの意図がありました。一つは逃亡ということ。もう一つは結婚相手を探しに出かけていく、ということです。そしてその二つはともに祝福ということに関係しています。神さまの祝福はアブラハムにおいてもそうでしたが、旅と関係しています。今までいた土地からではなく、故郷を出て旅をするのです。神さまから祝福を得ることと出て行く旅は関係しています。神さまはこの世からではなく、あたかも神さまの懐への旅の中で祝福を手渡していきます。ヤコブの場合は自らがしたたかな男であるがゆえに逃亡の旅でした。しかし、そのことと関係なく妻をめとるということにおいても、神さまの祝福の中に相手を求める旅です。妻を得るということに関しては、この旅では不思議な出会いを経験して、彼はやがて神さまの祝福の相続人となっていくのです。

 ところで、エサウをまた新たに別な妻をめとります。その際に父イサクがカナンの娘を嫌っていることとヤコブが親族の中から妻を娶ろうとしていることを聞いて、同じ親族イシュマエルの所に行き妻をめとります。エサウは祝福がほしかったのです。

 ヤコブは旅に出ます。逃亡を余儀なくされた故、しかしもう一方で妻を探し出す旅です。たぶん、編集上本来は二つの話があって、一つは逃亡の物語、一つは妻を得る物語で、それを一つの物語にまとめたと想像することができます。しかし、そういう読み方だけではなく逃亡の中に隠された祝福の物語としても読むこともできるわけです。そういうとらえ方は実に聖書的です。そう簡単に逃亡生活の中に祝福があるとは言えないのですが、しかし、そうであるからこそまだわたしたちの人生は可能性がある。希望があるわけです。実に、こういうあり方こそ聖書的です。神さま的です。本当に人生は成功して幾らではなく、救われてこそ人生なのかもしれません。安易に神さまの業を安売りするつもりはありませんが、このような人生を歩んでこそ人生ではないでしょうか。

さて、果たしてキリスト教はこのヤコブの旅を教えてきたでしょうか。教義的なことにばかりに身を固めてしまって、旅に出ることを教えていたでしょうか。ふと、自分の信仰の歴史を振り返る時に、キリスト教は旅に出ることを教えてくれませんでした。結局はいい人になることくらいの…?。しかし、こうやって族長たちの物語を読む時、彼らは旅に出ます。いいえ、神さまこそ一番はじめに「生まれ故郷を出て、親族の家を出て、旅に出よ」とおっしゃっていました。神さまと出会うこと…。それは、本来は神さまと一緒に旅に出かけることだったのではないでしょうか。そして、その中で神さまの祝福を受け継いでいく、それこそ本当のキリスト教だったかもしれません。しかし、そんなことよりも、悪い言い方をしたらてっとり早くクリスチャン服を着てしまってのような…、そんな教えられ方をわたしたちは聞いてきたようです。そういう狭い世界の中で苦しめ悩み…。本当は、もっともっと大きな旅の中で苦しみ悩み喜び神さまの祝福を受け継いでいくのではないでしょうか。

旅に出ましょう!難しいことは抜きにして!イスラエルが荒野で神さまに出会ったように、イスラエルが荒野で神さまから律法をもらったように。旅の中でこそ、神さまの祝福と本来的な出会いがあるように今思えるのです。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一
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