創世記を読む 神さまのご計画 「真理」って何? 真理のTOPページへ

イサクは子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入られ、妻リベカは身ごもった。ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これがでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。主は彼女に言われた。
 「二つの国民があなたの胎内に宿っており二つの民があなたの腹の中で争っている。一つの国民が他の民より強くなり兄が弟に仕えるようになる。」

創世記25章21〜23節
 イサクとリベカの結婚。そこには確かに神さまの祝福を伴った御心がありましたが、しかし、彼らの結婚はすべて順調ではありませんでした。私たちが神さまの祝福について考えるときに、すべてが順調…そのようなものとして思い描きます。しかし、聖書を読む限りにおいてそのような幻想を払拭していく必要があるようです。言い換えれば、確かに結果的にはそういう良いことで終わるのですが、その道のりは波乱万丈です。そのことが信仰者にとって躓きとなります。神さまを信じるということが起こるときに、忍耐ということをも引き受けていかなければなりません。神さまの御心はそういう忍耐と共に少しずつ見えてくるようです。
 イサクもまたアブラハムと同じ子供ができない結婚生活でした。そこで彼は主に子供を求めて祈ります。もうすっかり結婚すれば子供ができると思ってしまっている私たちに、あるいは、子供を作る作らないということがすっかり人間の手で支配されているかのように思われてしまっている社会に対して、このイサクの行為は新鮮です。神さまに祈るということ。それは私たちの願いを聞いてもらいたいがゆえにということで御利益信仰として処理しまいがちですが、今一度、祈るということ、そのことに隠されているという意味で、謙遜に人生を生きようとしている人間の姿を回復する意味を考えてもよいと思います。祈るということは敬虔である、ということで処理してしまうのでもなく、祈るということを謙遜に生きているという意味で考えていく大切さはあると考えます。祈りが聞かれた聞かれないとかいう議論も大切かもしれないが、それ以前に、祈るということを神さまの前で謙遜に生きているかいないかという問いが先行するのかもしれません。そういう意味で、今は神さまを求めている時代ではなくて、神さまこそ私たちを求めているそういう時代に生きていると思えます。神さまが問われているのではありません。問われているのは神さまではなく、実に神さまを問うているあなたです。自分の問題を棚に上げながら自らを問わないあなたです。そのあなたを神さまの方こそ問うている。
「お前の生き方はそれでいいのか。正しいとか正しくないとかということではなく、傲慢かそれとも謙遜なのか?」
 神さまはイサクの祈りを聞かれました。妻リベカは身ごもりました。しかし、彼女の胎内で子供たちが押し合っていました。そのことを知りたくて、リベカは御心を知りたくて出かけました。「出かけた。」というのがまた興味深いです。旅に出たともとれるし、どこかの神的なところに行ったのか定かではありません。その当時、多分彼らの周りにはたくさんの神的なところがあったのだと考えられます。たとえば、父アブラハムが神さまと出会った場所、または祈った場所。あるいは自分の親族から言い伝えられていた場所。あるいは自らが神的な場所と思っているところ…。当時神殿があったわけでもなく、もちろん教会もあったはずではない。でも出かけていくのですね。ただ言えることは、自分の所に神さまおいでではなく、自分から御顔を求めるようなあり方。私たちが今すっかり忘れてしまっている、あるいは古い世界の幼稚な生き方としてしまっている巡礼者の姿がそこで想い起されます。私たちの信仰は巡礼者であることを忘れてしまった傲慢なものなのかもしれません。
 神さまはリベカに一つの言葉を送ります。

 
「二つの国民があなたの胎内に宿っており
 二つの民があなたの腹の中で争っている。
 一つの国民が他の民より強くなり兄が弟に仕えるようになる。」

彼女の胎内には争いと逆転が秘められていたのです。もし皆さんに二つの人生が用意されていて、その一つは平和な安全な人生であり、もう一つがリベカと同じく争いと逆転であるなら、どちらを選ぶでしょうか。よっぽどでない限り、前者を選びと思います。私もそうします。そういう安全神話の中で生きたい私がいます。あるいは安全神話と神信仰を結びつけてしまっている私がいます。しかし、神さまのご計画と祝福はこの物語を読む限り、そうではありません。神さまに出会って、神さまを信じて、それは安全神話に生きるということではないようです。でも、そういう神話が教会の中にも根強く生きています。
月が満ちてリベカは出産しました。神さまが言われたとおり、子供は双子でした。先に出てきた子は全身が毛皮の衣のようであったので、エサウ(赤いという意味)と名付けました。次の子は何故か長男のかかとを掴んで出てきたのです。そこでかかとという意味の言葉アカブにちなんでヤコブという名をつけました。意味ありげな名前です。それも人間的にというより神さまの御心的に意味ありげな出生です。人の足をつかみその人生を奪い取るような出生です。そして、案の定、彼はその人生において長子の特権を作為的に奪い取り、その祝福までも奪い取っていく人生を送っていくのです。
 ヤコブはそのあり方が聖書的でないと思えます。どうしても、私たちの目で捉えがちな信仰者の姿からはかけ離れているように思えます。ヤコブはその人生そのものが逆転を引き起こすいわばへそ曲がり的でした。最後に彼は十二人の子供たちを祝福するのですが、その祝福の手を交差させて、右のものを左に、左のものを右に置くのです。困ってしまいます。でもそれでこそヤコブ。そのヤコブを通して業を行う神さまがいるのです。なぜそのヤコブを神さまは祝福されたのか?それは自分自身の安全や身分の獲得といった安価な問題に目を向けた信仰では見出すことはできません。彼は義人ではありません。また、義人になろうとした人生も送りはしません。しかし、神さまの御心との関係において生きたのです。神さまの祝福との関係においてその生涯を終えていくのです。
 彼の人生を見るときに、その彼と比較するときにキリスト者は自らを義とする人生にすっかり虜になっているかのように見えます。事実そうではないでしょか。そういう風にして、いわば小奇麗な姿にまとめることがキリスト教? どうもそうではないようです。ヤコブのしたたかな生き方はすべての人に対して使われたわけではありません。それはエサウに向けて使われます。長子でありつつ長子の特権を軽んずる彼。またエサウが長子であるがゆえにそれを愛する父。また逞しさのゆえにそれを愛する父。ヤコブはあたかもイサク家では女の子のように生活を送ります。しかしその彼を使って愚かにも傲慢に存在しているこの世を神さまは逆転したいのです。ヤコブとそのヤコブの偏りを使って、長子の特権に甘んじてしまっているこの世の傲慢を神さまはご計画しています。それゆえに、神さまは彼を祝福されるのです。
 小ぢんまりとキリスト教的なきれいな服を着せられた信仰より、良い悪いをすべて神さまの前にさらけ出して大きなご計画に身を投じる、その方が信仰と言えるのではないでしょうか。
「大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改めよ」


新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一
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