創世記を読む 祝福される 「真理」って何? 真理のTOPページへ
「エジプトに行ってはならない。わたしの命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓い成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」
創世記26章1〜6節
 アブラハムにあった飢饉とは別にイサクの時代にも飢饉があり、イサクはゲラルにあるペリシテ人の王アビメレクの所に移動していきます。その時に神さまが彼に語った言葉、それが今回掲載した聖書の個所です。
 聖書には飢饉物語がいくつかでてきます。イサクは放牧を中心に生活を行っていましたので、飢饉のときは放牧の場を求めて移動しなければなりません。しかし、そこにすでに人がいた場合その土地の人たちとの間に緊張関係を持ちます。ただし、当時は寄留ということに今よりも寛大な社会であったのだろうと推測されますが…。その土地に移ると、土地の人たちが彼の妻について尋ねました。イサクは妻が美しく、自分の妻というと人々に殺されると思ったので妹と答えました。ここに緊張を持って生きているイサクが見出せます。イサクは他の土地への寄留も考えたかもしれません。それが父アブラハムが寄留したエジプトです。しかし、なぜかエジプトへの寄留を神さまはお許しになりませんでした。また、神さまの命令に従うことをともかく前提にして物語が描かれていますので、イサクは神さまの命令に従っていきます。他者に対する緊張を持ちつつもイサクは神さまの命令の中に自らの生きる道を模索する以上はなにもないのです。
 イサクが妻と戯れている姿が目撃され、ペリシテの王アビメレクがイサクのところに来ました。イサクは妻リベカを「妹」と言っていましたので、土地の男たちは彼女を狙っていました。しかし、イサクのものを奪い取ることになるということでしょう。父アブラハムの神さまから裁きを受けます。この部分はちょっと不思議な感じがしますが、祝福されている者に危害を加えることへの恐れを回り人々が持っていたということでしょう。物語は、このような言い回しでイサクへの祝福を表しているのです。また、思い出してみるとアブラハムに神さまはこう言いました。「お前を祝福するものをわたしは祝福し、お前を呪う者をわたしは呪う」。ともかくこの物語はイサクが祝福されていることをそのような形で描き出しています。
神さまに祝福されている。私にとってはちょっと奇異さを感じます。正直なところ、多くの時間で私は自分が祝福されているという思いを持ちません。私にとっては、祝福ということよりも自分の信仰的な歩みの方が関心ごとです。いいえ、過去にさかのぼると、「祝福されている」ということで喜んで歩んでいた時がありました。無垢な気持ちで嬉しかったとも思えます。しかし、安易すぎたとも考えています。祝福という言葉を使いすぎてしまって、祝福そのものの本質を失い、力任せ的な熱心さにうぬぼれてしまったことが思い起こされます。そして、祝福というより打たれていく者のようにすっかりなってしまいました。よくないですね。しかし、それが正直なところです。
しかし、聖書は今の私のようではなく、イサクへの神さまの祝福を決してないがしろにはしていない。むしろ、それに対する恐れを土地の人々こそ持っている。イサクよりもかもしれません。イサクは祝福されていることにあまり関心のないようにここでは行動しています。むしろ彼は土地の人々の対応に驚いたかもしれません。「祝福!祝福!」と言って自惚れているよりもずっとよい。「祝福!祝福!」と言って信仰心を高揚させてちっぽけに生きるより、そのことを捨ててしまって、淡々と粛々と出来事に神さまの導きを見出していくことの方が大切かもしれません。彼は種をまき、そして百倍の実りを手に入れました。やっぱり彼が祝福されていたことを語ります。これこそ祝福の見出し方ですね。
ところで、イサクへの祝福は彼のいわば信仰の中にその根拠を見出すべきことなのでしょうか。そうではないようです。彼が祝福されたのは彼自身ということよりも、彼の父がその原因となっています。それが今回引用した聖書の個所です。
神さまがアブラハムに誓ったからということと、アブラハムが神さまの声に聞き従ったからです。そして、「お前もまた、父アブラハムに習い、わたしの命令に聞き従え」というのがここで語られていることです。今イサクは祝福されています。その祝福は先に神さまが約束したからです。そして、父アブラハムが命令に聞き従ったからです。それゆえ彼が祝福されているのであって、その理由のゆえに、彼もまた父アブラハムと同じく命令に従っていくのです。その彼に井戸の争いを経て(やっぱり苦難はあるのですね)ある夜、神ご自身が顕れ、彼にアブラハムと同じ祝福の言葉をかけていくのです。
この物語を読みながら私は一つのことを考えました。神さまの約束と父アブラハムの命令への聞き従いのことです。言い換えると、神さまの約束とその約束への従順な僕の歩みということです。この僕とは誰でしょうか。私にはイエス・キリストです。彼の従順な歩みがあって私たちの中に救いがもたらされました。恵みがもたらされました。罪の赦しがもたらされました。そして、それ故に神さまのアブラハムの約束とその成就が私たちのところに来ました。アブラハム物語とキリスト物語の違いは一か所だけです。それはキリストが苦難を受け罪の赦しとともに神さまの約束とその成就をもたらします。旧約においては神の約束に力点が置かれつつ、しかし、新約においては罪の赦しとともに神さまの約束が語られています。キリストというお方がそれゆえに教会において罪の赦しに力点が置かれて語られます。しかし、彼は罪の赦しだけではなく、約束と実現をももたらします。ルターいわく「悔い改めの連続」でありつつ、あるいは「大胆に罪を犯せ。しかし、大胆に悔い改めよ」でありつつ、ただ大胆にでは終わらず、アブラハムの約束の中に歩みだす。彼の従順な歩みによってもたらされた祝福の世界の中に飛び込んでいく。それが私たちの信じる者たちの歩みだ、と思いました。ただしヘナヘナにしか歩めませんが…。
イサクは父アブラハムにあってアブラハムと同じ神さまの命令に聞き従う生に進んでいきます。私たちもヘナヘナですがキリストにあって神さまの命令に聞き従う歩みを開始するのです。変容主日に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」との天からの声を共に聞きます。その言葉に怖れ驚き、身動きを失った弟子たちの所にイエスは近づき手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と言葉をかけられます。その時の彼の触れられる手は癒しの時と同じ手です。いつも人々をお癒しになるときに差し出していた手です。彼は今日においても私たちに癒しの手で触れ癒しつつ、私たちに「起きなさい。恐れることはない」と近づいてきます。彼が近づいてくるのです。私たちが彼の所に行くという信仰ではないのです。彼が近づき手で触れられ私たちを癒します。その彼にあって私たちもイサクと同じく神さまの戒めに聞き従って行くのです。そのことが私たちの中でなぜか今起るのです。
最後に一言。キリストが来ます!
新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一
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