創世記を読む29 逆転の原因 「真理」って何? 真理のTOPページへ
「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれて争っている。
 一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる。」
 イサクのリベカとの結婚。それはただ息子に妻を与えるということ以上に、この結婚を通して、更に先に子孫が誕生してくるという、大きな意味合いが含まれています。ただ単にイサクが生まれただけでアブラハムの物語が終わるとするならば、アブラハムへの個人的な約束の成就ということであり、その後の歴史にはアブラハムは無責任な態度のように思えます。自分だけに約束が実現すればそれでよいのか?そうではなくて、自分の息子にもやはり神さまの約束が実現していく。それが継承するということであり、そういう意味で、アブラハムの大切な最後の仕事はイサクが結婚するというところまで含まれていると思えます。善いものはただ単にその人で終わるということではない。それが引き継がれ、その引き継いだ人にとってもまた善いものでありつづける。そういう意味で、アブラハムはイサク誕生にとどまらず、彼の結婚までを作り出してから隠居し、財産をすべてイサクに譲り、死んでいきます。
アブラハムの死以降は今度はイサクの人生です。彼の人生もまた、基本的にはアブラハムと同じ子孫を作り出すことに問題を持っていました。肉体的に元気であること。それは強いことであり、生き残れることです。しかし肉体的に問題があること、それはこの世的に滅んでいくということです。イサクもまたアブラハムと同じ問題を持ってアブラハムの旅の継続を開始しました。
 聖書を読んでつくづく思います。順風満帆な人はどこにもいません。むしろ、そういう順風満帆であるが故に強く生きられる人に対抗するかのように、神さまは問題のある人と出会っていきます。パウロの言うように「この世の傲慢を打ち砕くために」でしょうか。イサクもまたアブラハムと同様、神さまにあって問題を担い、その担った旅の中で神さまの恵みと出合っていきます。
 イサクもまた、アブラハムと同じく子どもができませんでした。彼は子を求めて神さまに祈ります。ここでもまた、アブラハムと同様、神さまにあって子どもが与えられていきます。自分たちの力でではありません。神さまが子どもを下さるのです。注意してください!同じ子どもでも神さまが子どもを下さったと言う意味での子どもという存在があるのです。その子どもの中に神さまの御心が隠されている、ということがあるのです。神さまは彼の祈りを聞き、妻リベカは身ごもりました。アブラハムのように多くの歳月をかけてではありませんでした。イサクの場合は子を手に入れるということではなくて、子どもの持つ問題が神さまの前での人生のテーマとなります。私たちの中でも、子どもが生まれないという問題があります。しかしそれだけではなくて、子どもを育てるという問題もあるわけです。幼稚園と関わってたくさんの子供たちを見ました。その中には障害の故に育てることが大変難しい子ども達もいました。一般的な育て方ではどうにもならない問題を持った子どもがいます。このことにもわたしたちは向かい合うことがあるわけです。
 神さまが子どもをくださいました。しかし、子供たちが押し合うので、彼女は神さまの御心に尋ねました。その時、一つの言葉を聞きます。
「二つの国民があなたの胎内に宿っており、
二つの民があなたの腹の内で分かれて争っている。
 一つの民が他の民より強くなり
 兄が弟に仕えるようになる。」

後にリベカはこの神さまの言葉の故に、神さまのご計画を先走って実現することをしてしまいます。
 この言葉と共に生まれてきたのは双子の兄弟でした。先に出てきたのは毛むくじゃらで赤い子。故に赤いという意味のエサウ。次に出て来た子は何故か兄のかかとを掴んで出てきました。そこで、かかとという意味のヤコブと名づけられ、二人は成長していきます。二人とも親に似ているということが感じ取られません。何か先行きの怪しさをもちながら成長していきます。
 イサクはエサウを愛しました。エサウは狩人でイサクは獲物が大好きだったからです。しかしヤコブは穏やかであり、多分イサクがエサウを愛したこともあってリベカはヤコブに愛情を注ぎます。もしかしたら、彼女の中にはそういう状況と共に神さまの言葉が気にかかっていたのかもしれません。そして、ヤコブに何か不思議なご計画があるように思えていたのかもしれません。
 ある日エサウは猟から帰ってきました。彼は疲れ空腹でした。そこで、エサウはヤコブに食べ物を求めました。ヤコブはエサウの求めに答えました。しかし、条件を付けてです。
「まず、お兄さんの長子の特権を譲ってください」
まさにかかとをつかむ?ヤコブがここにいます。人のもっているものをしたたかにつかみ取る彼です。しかし、お兄さんにも問題がありました。彼は一時の疲れと空腹に安易に長子の特権を譲り渡してしまいました。そして、食事を済ませるとさっさと立ち去ってしまいました。その彼について聖書はこう記しています。
「こうしてエサウは、長子の特権を軽んじた」
 二人の間のやり取りについて細かい描写がありませんので細かい事は言えないのですが、ここで聖書が問題にしているのはヤコブのしたたかさではなく、エサウの安易さを問題にしているようです。「長子の特権」というのは日本も家社会の影響を受けているので、私たちも何となく感じることができます。エサウの場合、彼は部族世界ですから、本来ならそれがどれほど重要なものであるかを受け止めなければなりません。つい今も、タリバンが韓国人の人質を取って仲間の開放を要求している事件がありますが、その際の交渉役を努めているのは有力な部族長です。アラブの世界においては彼らこそ政治そのものです。その世界において長子の特権を軽んじるということがあるならば、それは部族の秩序と生き残りにおいて大変な問題になります。その特権を彼は一時の疲れと空腹と引き換えてしまったのでした。
 部族社会にあって長子の特権が軽んじられている。聖書はその問題に目を付けています。いわばこの世の権力者が、その権威を軽んじ力を振るっている、ということでしょうか。権威は大切です。わたしはどちらかというと権威主義が嫌いでその結果権威も拒絶してしまいたい傾向を持っていますが、でも、今は権威の大切さは強く感じています。権威というものがあって、初めてできるものがあります。イエスにおいても彼は権威を持っており、その権威によって悪霊を追い出しました。権威がある故に、壊せない壁が壊せます。一人でできないことが権威によって多くの人を集め壁を壊させます。しかし、その力の故に人は傲慢にもなり、安易にもなり、愚かになりもします。
 エサウとヤコブの中に示された神さまの御心はこの権威をめぐってのもののようです。この愚かに使われてしまう権威を、しかしもう一方でしたたかなヤコブが手に入れる。もしこれがヤコブにおいても肉的に使われてしまうならあらたな問題が引き起こされます。しかし、そういう問題を持ったヤコブを通して神さまのご計画は成就に向かって進んでいきます。ただし、大変厄介で多くの時間を費やす、波乱万丈です…。

 この物語の読者の一人であるわたしにとって、何とか御心の中に救いを見出したい思いが駆け巡ります。ただし、何でも祈ればという意味ではありません。祈る大切さはある。しかし、深いところで色々なことを省みることをないがしろにしては意味を失ってしまいます。そういう人間の苦悩の営みを蔑ろにして祈るというのは、本当に祈るということなのでしょうか。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一
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