創世記を読む 実  現 「真理」って何? 真理のTOPページへ
「主人アブラハムの神、主よ。わたしがたどってきたこの旅の目的を、もしあなたが本当にかなえてくださるおつもりなら、わたしは今、ご覧のように、泉の傍らに立っていますから、どうか、おとめが水をくみにやって来るようになさってください。彼女に、あなたの水がめの水を少し飲ませてください、と頼んでみます。どうぞお飲みください、らくだにも水を汲んであげましょう、と彼女が答えましたなら、この娘こそ、主が主人の息子のためにお決めになった方であるといたします」
  アブラハムはすっかり年老いました。ある日、家の全財産を任せている年寄りに大切な使命を託します。
「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族がいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れてくるように。」
実は、これがアブラハムの語った最後の言葉でした。ですから、この言葉はアブラハムの遺言であると言えるでしょう。そう考えると大変重い言葉なのです。その大変重い言葉をある年寄りに委ねたわけです。この年寄りは全財産が任されていました。信頼できない人に全財産を任せることなどしません。そのことも合わせて考えると、アブラハムが語ったことの重大性をより感じさせます。
アブラハムが年寄りに託したことは、息子イサクのために妻を見つけてくる、ということでした。但し、そこには条件がありました。それは、カナンの娘から取るのではなく故郷の親族の中から連れてくるということです。カナンの娘ではないというのは、宗教混合の危険を考えてと思われます。その際、親族から嫁を迎えるというのは、財産を自分の氏族の範囲に留めるという経済的な問題だったかもしれません。しかし、そのことが保たれたとしても、今までのアブラハムの旅が、あの神さまの救いの旅が前に戻ってしまうということはあってはならないのです。神さまがアブラハムを通して開始なされた救いの歴史は、アブラハムの自分勝手な都合で終えてはならなかったのです。私たちも年老いてきました。信仰について、今までは自分のこととしてとらえていました。しかし、そろそろ自分のこととして考える時期は終わろうとしています。私たちの信仰の中に働いている神さまのご計画もまた、私たちの勝手な都合で終えてしまうことを避けなければなりません。私たちもまた、アブラハムのように次の世代に信仰を委ねて行かなければならない時期に来ています。
この大変重大な使命を携え、年寄りはアブラハムに言われたとおりイサクの妻を見つけ出すべく、親族のいる地に出かけました。町の近くの井戸で彼は休み、神さまに祈ります。神さまの導きが必要だったのです。その際に、彼は一つのしるしを求めました。「水を飲ませてください」と願うときに、水を与えてくれるだけではなく、らくだにも水を与えようとする女性がイサクの妻になる女性としようと…。つまり、人を進んで助けようとするか、それだけではなくその人の持ち物に対しても心配りがあるか、ということでしょうか。
彼が祈り終わらないうちに、リベカがやってきて来ました。彼女は井戸に下って行き水がめに水を汲み、上ってきました年寄りは声を掛けました。「水がめの水を少し飲ませてください。」すると彼女は「どうぞ、お飲みください。」と答え、年寄りに水を飲ませました。彼が飲み終えると、今度は「らくだにも水を汲んできて、たっぷり飲ませてあげましょう」といって、井戸に走っていきました。そして、十頭のらくだにたっぷりと水を飲ませたのでした。
ただ聖書を読んでいるとリベカが気立てのいい女性に思えます。確かに彼女は気立てのいい女性です。ところで、ここで描かれている井戸というのはどういうものかというと、一六節に「泉に下っていき」と書いています。イスラエルのメギドというところで井戸を見たことがあります。直径十メートル位の穴が掘ってあって、底の方に水が溜まっています。穴の側面にらせん状に階段が掘られていて下に下っていくのです。底まで深いところでしたら二十メートル位下るのです。もし、そういう井戸だとするなら、このリベカの作業は大変なものだったわけです。年寄りに水を飲ませるのは問題ではないのです。しかし、彼女の方かららくだにたっぷり水を飲ませると言い出しました。この作業は実に大変なことだったはずです。しかし、彼女は走って下って、あたかも何事もなかったようにその作業をしてしまうのです。
実にその振る舞いをしたリベカは年寄りの求めた祈り通りだったわけですが、その一部始終を年寄りは手伝うこともなく見守っていました。彼が求めたしるしを見極めるためにです。改めてこの状況を思い描くときに、年寄りの求めた祈りもさることながら、リベカの振る舞いもたやすいことではなかったわけです。しかし、そういうしるしを年寄りは求め、そのしるしに答えるかのように、本当に聖書を読む限りにおいてはたやすく思えてしまうのですが、物語りは進んでいきます。
導きがある。アブラハムが考えていた以上に神さまの方にイサクの妻を与えようとするご計画があった。創世記の女の創造において、男が神さまに求めたからではなく、神さまの方こそ助けでとしての女の必要を考えて男に与えました。実に、そのことと同じ神さまのご計画をこの物語は感じます。ですが、女を与える神さまのご計画は、そんなに軽いものではありません。アブラハムにおいても遺言的な内容でしたし、その使命を受けて旅立った年寄りにしても、安易にリベカと出会うということではなく、やはり、出会うべき女性はよい女性でなければならなかったのです。それに答えるかのようにリベカもまた、ただの親切ということではなく、井戸に何度も水をくみらくだに水を与えるような女性でした。この物語を読むときに、つい調子のよい話に思えてしまうのですが、そこに生きている人々の生きることの重さを強く感じます。

 あることが求められ、それが祈られ、そして、実現していく…。教会で祈りが叶えられた、という話を聞きますが、それは大変重いできごとです。でも、私たちがその重さがわからず、安易に祈りを使い、安易に人を使い、そして、自分の思いが叶えられていくことを軽くしてしまっています。本当は、どのできごとも、どの人も人生も重い。人の思いも、人の祈りも、そして、その実現に向かっていく歩み出しも重いものです。この物語を読む中でわたしはそのことを強く感じました。
 教会でであった祈り、礼拝、献金等の信仰の業は、実は大変重いものだったと思うようになりました。なぜかそれを私たちは軽いものとして取り扱ってしまっていたのではないと思いました。私たちは信仰を持っているが故に祈るのですが、その祈りは軽く使われていないでしょうか。私たちは信仰を持っているが故に神に仕えていくのですが、その仕えることが軽いこととしてしまっていないでしょうか。また、求めていることが叶えられると信じることはよいことですが、それがあたかも自動的に与えられるがごとくにされてしまっていないでしょうか。
 信仰的なあり方が苦労されるということ、そういう中でなされていくということ、そういう苦労を担うときに、私たちのあたりまえだった祈りや献金、そして奉仕が意味を持って力を振るうということが始まるように思えます。
 神に感謝!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一
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