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創世記を読む
27 創世記23章7〜9節


買い取る

「もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください。」

 今回は創世記二十三章全体を取り扱います。そこでは、アブラハムが妻であるサラを失った時に、アブラハムがマクペラの洞窟を買い取った時の様子が描かれています。
 通常、私たちが買い物をするときにはよほどのことがないかぎりより安い物を手に入れようとします。今現在、私たちの教会の経済状態は悪いわけですから、色々な意味で必要なものをそろえることは分かりきっているのですが、結局は財政を見て判断しています。たとえば、壁の塗り替え。誰が見ても必要性は十分分かっていると思います。しかし、新たな借金を作って塗り替えができるか。その場合、一番考えているのは借金を返済できるかどうかという問題です。イエスのたとえ話の中に、相手と戦う場合、相手の自分の戦力を見比べて戦うかどうか考える、あるいは、塔を建てるときに十分な財政があるかを調べてから行う、というくだりのものがあります。本当に、当たり前のことですが、ことに信仰という事に関していえば、でっかいことを言ってしまって、そういう先行きを見極めないで物事を進める傾向があります。多分、そういうことで、どの方も一度や二度は苦しんだことがあるのではないでしょう。また、自分はその件に関しての判断基準は得ていても、知人関係にそういう問題が起こったときに、安易な方に流されていく傾向があります。忠告するというのは分かりきったことですが、そこことをした場合、関係が崩れることを恐れて、結局はそうなっていくわけです。こういう問題の方が、結局は教会の中では多いように思っています。
 ともかく、私たちはまず安いものを求めます。それも大切なことです。が、しかし今日の聖書の箇所を読んで、どうも一概にそういう判断をするわけではないということを考えさせられます。
そもそもアブラハムの旅というのは、七十五歳までベドウィンとでもいうか、町の近くにテントを構えてその辺りで羊を放牧をしながら移動していた民である彼が、やがてカナン地方に移動し、そこに定住していくという物語になっています。その際の大きな問題は、どのようにして土地を取得したか、でした。今までの彼の旅は、聖書では土地の自由に使っているように思えますが、まだ一度たりとも土地を取得していません。ただ、その土地はあいていたのです。誰も使っていなかったのです。ですから、誰かが住んでいる土地に彼らが滞在する場合は、聖書の言葉では「寄留」いう言葉を使っています。今回は創世記二十三章全部を扱っていますが、四節でアブラハム自らが「わたしは、あなた方のところに一時滞在する寄留者ですが、…」ということを言っています。
寄留者が土地を取得していく…。それは一般的には問題があると思うのです。どこの馬の骨だからないし、そもそも民族が違うわけです。多分、カナン地方には色々な民族がいましたが、それらは、どこかで血のつながりのある近い親戚関係のようなものでした。日本の場合は、韓国、中国等のようなもので、なんとなく似ている。しかし、実際には、違っていて、もし一緒に住むとなると、新たな緊張が生まれます。また、寄留という異国に一時滞在をするというのは、当時ではよく見られていた光景なのでしょうが、寄留するということ自体が訳ありなわけです。そういういわば寄留の民が土地を取得するというのは、そこに住んでいた民にとって不安の材料となります。
サラがなくなりました。埋葬するわけです。そこでアブラハムは土地を分けてもらおうと考えました。通常はどうするのか分からないのですが、彼にとってサラは、ただの妻という以上に、神さまの約束と深く関係した妻でした。サラという名は「王女」という意味です。高齢にも関わらず、神さまは、アブラハムとサラとの間から生まれる民が子孫だと約束したのです。神さまの約束はアブラハム一人では実現しなかったのです。この夫婦を神さまは実に選んでいたわけです。その当事者であるサラがなくなった。多分、アブラハムはただの埋葬では終わらしたくなかったでしょう。神さまとの約束との関係で埋葬を考えたのだと思います。だから、自分の土地に埋葬したかったし、その結果土地を取得しようと考えたのだと思います。果たして、先住者は土地を手放すでしょうか。
アブラハムはヘト人に頼みました。妻のために埋葬する洞窟を売ってください、と。多分、その土地は、定住者の土地であっても、定住者達にとっては邪魔にならない土地であったようです。
しかし、ヘト人の答えは意外でした。
「どうか、ご主人様、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最もよい土地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」
何が彼らにそう答えさせられたのでしょうか。ただ、聖書はアブラハムが神に選ばれた人であることにのみ着目しています。ヘト人は神さまを知ってはいなくても、アブラハムの誠実な歩みそのものに信仰を見たようです。伝えることに躍起になっている私たち。しかし、その私たちに信仰があるのでしょうか。この言葉には、そういう問いかけが聞こえてきます。
しかし、アブラハムは彼らの好意を受け止めながら、しかし甘えることなく、こう答えました。
「もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください。」
人の好意を無償で受け止めるときがある。しかし、反対に人の好意だからこそ正当なお金で買い取るということがあります。往々として、教会は無償でもらうことに走りました。確かに貧しかったのです。しかし、いつになったら正当なお金で買い取るということを開始するのでしょうか。結局、恵みのみという言葉に甘えて、もらうものとしてのみその一生を歩むのでしょうか。もし、与えられることを通して恵みに出会ったとするなら、やがてその恵みを正当なお金で買い取り、それを今度は与えていく、ということが起こるのではないでしょうか。いつそれが始まるのでしょうか。いつ私たちは正当なお金で恵みを買い取るのでしょうか。
結局は、そのことが起こらないかぎり、私たちの中からは何も始まってこないように思われます。アブラハムは、正当なお金を出してその土地を取得していきました。彼らの好意を正当に買い取りました。結局そのことがあったので、その土地は誰が見てもアブラハムの土地になりました。もしかして、後にアブラハムのことを知らないヘト人が現れて、あるいは、彼らが翻って恩着せがましい事を言い出したとしても、それはもはやアブラハムの物です。正当な値段で買い取るということの中には、後に起こるであろう厄介な問題を回避する、彼の信仰における知恵でもあったわけです。
いつまで、私たちは人の好意に甘え続けるのでしょうか。いつになったら、その好意を正当な値段で買い取るのでしょうか。
買い取りが起こるとき、私たちからの本当の宣教が開始されるでしょう。





                                                                                    新発田ルーテル・キリスト教会牧師
                                             士反 賢一


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