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創世記を読む
26 創世記21章12・13節


ヤーウェ・イルエ

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

 今回取り扱っている聖書の箇所は、アブラハムがその子イサクをささげるというイサク奉献物語と呼ばれているものです。この物語は二十二章から始まりますが、最初の一節にこう書かれています。
「これらの後で、神はアブラハムを試された」
ですから、このイサク奉献物語はその部分だけ取り上げると言うよりも、『これらの後で』とあるわけですから、今までのアブラハム物語の流れを無視しないで読む大切さがあるようです。イサク奉献物語は、いわば奇異なものとして、信仰者にとっては印象深い物語です。でも、この物語を読んで早急に答えを読み取ろうと言うのは危険だと感じます。物事には段階と言うものがあります。しかし、私たちは待てない。答えに行き着くことだけを求めてしまいがちです。せっかちです。そして、そういうせっかちさの中で説教されているのを時々耳にします。その結果、安易な「すべてを捨てて神さまに従いましょう」、と言うような説教が行われてしまいます。敬虔という観点から見るとそれはよい説教のように思われがちですが、それは人間であることを踏みにじった、そして、信頼と言うことではなくて、言いなりの使い勝手のよいクリスチャンを大量に生産する工場のような感じがしてしまいます。アブラハムは実に、ここでは神さまの試みに合格をするのですが、そこには二十五年間というイサク獲得の旅というものがあって、その旅の中で、彼は実に豊かな神信頼を持つようになる。神さまが彼にとって信頼になっているという前提のもとで、この物語が読まれる必要があるようです。
私たちは年をとります。場合によっては、無駄な時間として歳月を過ごすと言うことも知っています。しかし、それだけでしょうか。年をとるにはそれなりの理由もあるのではないでしょうか。私を今五十歳になって、そして自分の子どもを見るとき、一見子ども達はおかしなことをするのですが、そういうことをしながら、一つ一つ大切なものを見つけてきたのではないでしょうか。「すべてに時がある」。そして、その時を経なければ成長しないものがある。年代もののぶどう酒がそうでしょう。高価な手工品のギターだってそうです。はじめからよい音など出ない。でも、繰り返し繰り返し使っていくうちに、成熟した音が出始めてきます。その過程においては人は徒労と思ったり、挫折を感じたり、虚無感に浸ると言うときがあるわけです。しかし、そういう私たちを捨てない方がいる。それがいつでも聖書をとおして語られてきた神さまだったし、イエスだったんではないでしょうか。

またもや神さまはアブラハムに呼びかけます。もう神さまの呼びかけは彼には当たり前のようです。そして、彼は再びこの声に従った旅に出ます。しかし、今回の神さまの呼びかけは、先の子どもを得ると言うものではなく、子どもを失う旅への呼びかけでした。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる一つの山に登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
ふと聖書の箇所を思い起こします。
「主は与え、主は取る。主はほむべきかな」
そういう聖書の箇所は知っていますが、しかし私にとって神さまが与えると言うことについて問題はないですが、主が取られるということはどうなのでしょうか。実際に経験するとするなら、精一杯やることができたとしても、せいぜいただ黙ってしまってその中に機械的に身を投じるという以上に積極なものは見出せません。
アブラハムもそうだったんでしょうか。聖書は彼の思いを一つも語っていませんが、こういう言葉が記されています。焼き尽くす献げ物がないことを不思議に思っているイサクに対してアブラハムは、
「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる」
戸惑っているイサクを宥めるために言ったのでしょうか。それとも今までの歩みの中で見出した神さまへの信頼がその言葉を語らせたのでしょか。しかし、アブラハムは神さまの言葉に従ってイサクを献げます。祭壇を築き、その上に息子を縛って刃物を取り出し、まさに屠ろうとしたとしたとき天から御使いの声がしました。
「アブラハム、アブラハム」かれが「はい」と答えると「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」
「畏れる者」というのは言葉に従っているとほとんど同じ意味です。そして、従うと言うことは何もない状態の中では簡単です。しかし、その従うことに伴って失うものがある場合、人はそれを選択しません。私たち信仰者にとっていつもそれが大きな障害となっていると思えます。しかし、失うものがあっても従おうと言うことがある。それははじめから人の中に起きてきませんが、何かを経験することで、そういう選択が選ばれてくるときがあります。
いま、私たちがアブラハムと同じようにそれをするかという問いかけはしたくありません。しかし、自分の人生を振り返って、あの時あのことを惜しんだが故に、大切なことをしないで生きてしまったことがあることを皆さんもお持ちではないではないでしょうか。それは、どんな言い訳をしても、たとえ天の言葉で慰めを受けても、しかし、悔いとして持っているものがある。そして、その出来事が人生の中で繰り返されることがある。先には、失うことが怖くて従えなかったのが、その時、従うことが失うこと以上に大切にされる。実に、人生は不思議です。割り切れない深みを持っていて、私たちはそういう人生を生きていると思うのです。
ある種の人としての成熟差の中で、失うことを認めたうえで、御言葉に従うことが選ばれるとき、ヤーウェ・イルエがそこに起こります。イサクの代わりに献げられる子羊がそこにいます。あえて深読みするなら、献げられたイエスがそこにおられます。そして、「主の山に備えあり」が現実になります。
この物語を、私は従えと言う意味で語りたくありません。しかし、意味が分からなくとも、私は物語としてしまっておきます。そして、そのことが現実になるときに、物語が私たちを導きます。そして、私たちの傍らにイエスがおられることが見出されます。ヤーウェ・イルエが起こるのです。
今はせっかちに従うことを選ばず、イエスの不思議な行動を胸にしまっておいたマリアのように、私も心の片隅にこの物語をとどめておくことにします。その方が見せ掛けではなく、大切なものを見出すためには必要なことのようです。
神に感謝!




                                                                                    新発田ルーテル・キリスト教会牧師
                                             士反 賢一


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