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創世記を読む
25 創世記21章12・13節


壮大なご計画

あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ

 イサク誕生が本当に実現しました。改めてイサクという名に目を向けると、イサクとは「笑い」という意味です。「笑いの子」というのは変な名前です。どの人も、本当に本当によっぽどでなければ、そんな名前を子どもに付けません。いや、よっぽどでも付けません。ですから、熱心な信仰者から言わせれば不謹慎と言われてしまいますが、信仰を持つ、あるいは具体的な意味で神さまの約束に信頼を置いて歩みだすというのは、バカバカしい笑い話に生き出すということです。教会の中で実に熱心ぽく信じている人を高く評価しなけれわばならない傾向がありますが、そうやってわたし達は足元をすくわれてしまうかもしれません。そうではなく、人生の中で私たちは人間の思いにおいてバカバカしい笑い話であることを十二分に知っていても、そのことを選ぶことがある。その時に大切なことは、安易な敬虔性ではなく、思慮深い知恵が必要です。そういう意味合いの中で笑い話にしか聞こえてこない福音が信じられていく大切さがあると思えます。
神さまから聞いた約束とその実現の間にアブラハムの中には大いなる変化があった。その中には、人としての当たり前の疑いもあった。激しい嫉妬もあった。そして、作為的な神さまの約束の実現もあった。そして、作為的な約束の実現こそ、イシュマエルの誕生であり、そのことが、現実に起きた神さまの約束の実現において、大いなる問題点となりました。イシュマエルは当時の習慣としては合法的な手段、サラの女奴隷とアブラハムとの間に身篭った確かにアブラハムの息子でした。しかし、その誕生については、神さまの約束とは決定的に違っていました。神さまの約束においては、アブラハムとサラとの直接的な関係において子どもが誕生するわけです。しかし、サラの女奴隷(当時の奴隷という概念は、主人の所有物であり、故にサラそのものと見なされます)との関係による子どもは神さまの約束とは違っていました。確かに当時の社会性においてアブラハムの子どもですが、厳密な意味では人為的にアブラハムが神さまの約束を実現したことで誕生したわけです。アブラハムは待てなかったのです。そして、そのアブラハムの姿に、私自身は、神さまの約束は信じ得ても待つことができない問題を感じます。もしかしたら、わたし達は神さまが信じ得ないということではなくて、神さまの実現の仕方が待ち得なくて、その結果信じて行こうとしていないということの方が実際的な大きな問題なのかも知れません。
乳離れし、子どもとしての成長を開始したイサクがイシュマエルにいじめられているのを妻サラは見ました。そして、アブラハムに訴えた。彼女の要求はイシュマエルとその妻ハガルを追い出すことだったので、アブラハムは大いに悩みました。確かに自分の子である子どものことに彼は悩みます。その結論は、彼には出し得ませんでした。この問題を作り出した根本的な問題は神さまにあるのではなく、自分の中にあったからです。
神さまからの約束とその実現としてのイサク誕生までの二十五年間の歩みで、彼はただ単に神さまが何方であるかだけではなく、自分たちの問題も見出していました。そして、自分たちの問題の故に引き起こした問題に本来ならば自分達が責任を持って対処しなければならない。多分アブラハムはあの二十五年間の歩みの中で、そのことも見出していた。このとき彼は、多分人任せ的な人間ではなくなっていたと思います。確かに、彼は責任をとることはできたでしょう。しかし、そのことで、イシュマエルを神さまの祝福の外に置くことはそれでよいのでしょうか。この問題はイシュマエルがどういうものであったとしても、その問題を引き起こしたそもそもの原因は、神さまの約束の実現を待てなかったという彼自身にあったはずですから。あたかもそのアブラハムの自己矛盾的な弱さに神さまは救いの手を差し伸べていくのです。
「あの子どもとあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民とする。彼もあなたの子であるからだ。」
この言葉にアブラハムは何を感じたのでしょうか。皆さんにもそのことについて感じるものがあると思います。私は、詳しくは言い切れないのですが、一つだけいえる事は、まったく神さまの前に誇ることをやめるに値する出来事であったと思えます。人は、ただ単に「謙遜になれ」という誰かの言葉では謙遜になりません。決定的な神様からの出来事をとおして謙遜になっていく。どんなに自分に謙遜になることを言い聞かせても無駄です。しかし、その人が謙遜になっていく出来事がある。そして、その人を謙遜にしていく方が唯一おいでになる。そして、その方との出会いにおいて人は決定的に謙遜になっていきます。その神さまが、今、私たちと共におられます。
アブラハムはその神さまの言葉に救われるかのように翌朝早くにハガルを旅出させました。パンと水を負わせて。ハガルにとっては多分奴隷の身分ということを知っていたはずなので、それは死を意味することであることを重々知っていたと思います。しかし、荒野を生きられる限りさまようこと、あるいはその間に誰かに拾われること以上になす術はありませんでした。ハガルがどういう思いを抱いていたのかは分かりません。しかし、奴隷ということはそういうことです。よい主人に出会えば開かれる。しかし、悪い主人に使われれば死んでいくということです。ハガルはそういう生に生きていただけだったのです。私たちの人生もそういう一面を持っている。自分のあり方によってではなく、誰が自分の主人になってくれるかで開かれも閉じもするという一面です。
しかし、神さまのアブラハムに対する祝福は、アブラハムの待てなかった問題にあってもまだ続いていきます。それはアブラハムだけに続くのではなく、その問題に巻き込まれた人々に向かっても続けられていくのです。実に神さまは、その人がどういう人かによってではなくて、ご自身の名による約束において人を祝福しているのです。そもそも、アブラハムへの祝福はアブラハム自身だけのものではありませんでした。アブラハムにあってすべての人が祝福に預かる祝福でした。信仰があることは確かにクリスチャンにとって大切なことです。しかし、改めてわたし達は本当に信仰があるというのはどういうことなのか考えなければなりません。吟味しなければなりません。そして、本当に信仰があるということは、信仰があるから祝福されるということではなくて、信仰がなくても人を祝福している神さまがおられるということが見出せることです。そして、自らに誇ることなく神さまの約束の中に歩んでいくことです。そのことが見出せるとき、わたし達は何か勇気と希望を感じ出すのではないでしょうか。
イシュマエルとハガルは捨てられませんでした。人間の主人にあっては捨てるしか術はなくても、神さまご自身が彼らの主人となって行きます。神さまは彼らの泣き声に耳を留められます。そして、手を差し伸べます。彼らには人間の主人はあらわれませんでしたが、しかし今や神ご自身が彼らの主人となり、荒野の只中で水を差し出します。そして、彼らは荒野の只中で成長し、やがて一つの強い国民として後に歴史の中に登場してきます。

私自身歴史の深みを見出すことはまったく不可能です。しかしこの物語をとおして、人の良し悪しを超えて神さまが人を祝福してくださっていることだけは忘れたくありません。



                                                                                    新発田ルーテル・キリスト教会牧師
                                             士反 賢一


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