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24                創世記12章2節


アブラハムの旅への招待

わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。
祝福の源となるように」

 前回の真理にも書きましたが、今回も改めて皆さんにアブラハムの旅への招待を書きます。この旅が、今の私にとっては唯一の教会存続の希望だからです。内容的には前回とそれほど変わっていませんが、より思いを一つにして下さったら幸いだと思っております。
 十月十日に新潟地区『伝道フォーラム』がありました。『私たちの宣教をめざして』というテーマで、前半では各教会で行われている宣教の具体的な取り組みについて報告されました。私たちの教会からは松田洋子さんが、村上で生まれた松田集会のこと、その始まりと今の活動の様子を語ってくださいました。
後半では、私が新発田教会で行ってきた取り組みについて語りました。題は『自己訓練』。果たして、題がふさわしいものかどうかは怪しいです。で、実際的にはこの教会で発行している真理について、あるいは教会学校の運営の仕方を中心に話しました。
 私たちの教会学校は、あるときから生徒を集めるということではなくて、聖書のお話を語る私たちが本当にメッセージを持っているかということに力点を置いて運営を開始しました。生徒の数は減っています。そこで、一つの方法としては生徒を集めることに専念するやり方もありますが、そうではなく、伝える側の質を求めることに力点を置きました。そこで、勉強を開始しました。といっても、別な時間に先生が集まって勉強をするというのではありませんでした。もし、そういう方法を使うのなら、かなりの負担が強いられるからです。そういうやり方ではなくて、ある本を用いました。その本は私が以前に浦和ルーテル学院で聖書科の授業を受け持ったときに使った本でした。その本を使って生徒に聖書を伝えましたし、その本を使ったことによって私自身も沢山勉強できました。その本を教会学校の先生に一冊ずつ渡して、その本で学びつつ、教会学校でお話をするようになりました。正直な話、何度も教会学校の先生からの聖書のお話に私自身が力をもらったことがあります。
 今実際に信徒が教会で奨励をする場が多くなっています。理由は牧師がいなくなりつつあるからです。ですから、仕方なく、ある意味で牧師の代理としてその役割を負っているというのが多くの教会で見受けられることです。でも、私たちの教会は違います。信徒による奨励というのは牧師がいなくなってそうなるしかなかったということではありません。始まりは確かに他の教会と同様、牧師不足と関係しています。しかし、今実際には私たちの場合牧師がいないから代わりにしているというのはなく、信徒の役割の大切なものとして、信徒が奨励をしているのです。使徒言行録でステパノという人が出てきます。彼は給仕係でした。しかし彼は民衆の前で説教をしました。その説教の中からあのパウロがクリスチャンになっていくといっても過言ではありません。使徒言行録の時代、多くの人がキリスト教徒になっていきますが、それが使徒たちの宣教によるというよりも、一信徒による説教、いわば私たちの教会で行われている奨励によって、クリスチャンが誕生していたのです。いつの間にか教会は牧師が宣教し、その牧師を信徒が支えるという形に変形されました。その理由は確かにあるのですが、信徒自体がメッセージを持ち、それを伝えているということが失われつつあります。信徒にも神さまからいただいたメッセージがあります。それをうぬぼれることなく語るということ、あるいは言葉で語らなくとも、その生き様で語られているということの大切さが今問われているようです。
 フィリピ書に牧師の役割について『信徒の業を整えて…』というくだりがあります。牧師だけがキリストの働きをしているのではなく、信徒もそれを行っている。その際、牧師の役割はその業を整えていく役割であることが記されています。今の状況の中で、信徒が奨励をしているというのは、牧師がいなくなりつつあるからではありません。そう思っても一向にかまいませんが、そうではなく、信徒が福音を語りだすためです。その神さまのご計画の中に私たちは今招かれています。このことに耳を傾けることのできる方は、ぜひ、私たちの奨励の輪に加わってほしく思います。
 私たちの中で新たに発行されだした『真理』もまた然りです。発端は私の経験で、私にとってある人から聖書の話を聞くことよりも、実際に自分が聖書の話をし出した方が聖書のことがよくわかるようになりました。だから、何人かの有志の方に、聖書を自分で勉強しませんかと声をかけました。そうやって生まれてきたのが『真理』です。この真理についても、聖書を勉強する場を新たに設けはしませんでした。今までの生活の中で、少し時間を割いて自分で聖書を勉強する。その際にガイドが必要ですから、信徒向けに作られた聖書講解書を自分で読みながら勉強し、真理の発行に合わせて学んだことを発表しているだけです。これは人に見せるためではありません。でも、こういう勉強をしなければ、証といわれているものは一向に始まり以上に成長しません。ヤコブ書にこう書かれています。『自分たちの信仰について、いつでも弁明できるように準備しなさい』。ここでの弁明とは、多分学校で習った通り言うということではなく、自分の信仰を自分の言葉で語れるように訓練することを言います。牧師先生が言ったとおりではありません。たとえ牧師が言ったことであっても、それを改めて自分の言葉で語られるように、自分の心の中で感じたことを自分の言葉にする作業が必要です。そういうことを行うことで、人は成熟します。特別な場や訓練を受けなくても、自分と自分の身の回りのものを使って自分を弁明できる者へと成長させることができます。

 今私たちの教会はこのような経緯を経て、牧師と五人の信徒による奨励の輪が出来上がりました。この輪から新発田教会での教会学校に語る人を派遣していますし、新津教会での講壇奉仕で語る人を派遣しています。また、私の働きもいわばこの輪の一員として、新発田教会で説教するために派遣されていますし、田上の幼稚園に派遣されています。また、村上の松田集会に派遣されています。そういう形の中で、今私たちはアブラハムがイサクを得る旅をしたと同様、私たちのイサクを手にする旅をしています。
今の教会の現状は決してよいものではありませんが、しかし、今は私たちはまだ教会を持っています。しかし、私たちの子どもの世代には教会があるのでしょうか。あるいは教会があっても、年金のように私たちの借金を背負わせるためにあるのでしょうか。もしそうならば、私たちはただ自分のためにだけしか信仰を使いませんでした。たとえどんなに立派なことをしても、人からは賞賛を受けるようなことはあっても、結局は自分がよければということ以上にはならないと思うのです。イサクを手に入れない限り、私たちの存在とは神様の前では所詮そんなことではないでしょか。
 アブラハムの旅について考えるとき、私自身今まで教会の中で苦労してきたことが、「何だ。そんなことだったのか」と思えるくらい小さなことに固着して、いわば自分のちっぽけなプライドを守る事のために生きてきた、あるいは意地になって信仰を語ってきたように思えることが多々あります。私たちはそんな小さな世界に生きるために、神さまに召されたのではない。そうではなく、アブラハムと同様、神さまの約束によってイサクを手に入れるそういう壮大な世界に歩き出すために、招かれていたのではないでしょうか。
イサクを手に入れる壮大な神さまが招いてくださっている旅に、歩き出しませんか。


                                                                                    新発田ルーテル・キリスト教会牧師
                                             士反 賢一


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