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創世記を読む
22                創世記12章2節


アブラハムの旅への招待

わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。
祝福の源となるように」

 去年の末東京で会議があり、そこでNRKの種々の問題や取り組みについて話し合いました。その帰りの新幹線の中で、なぜか「わたしたちは子供のいないアブラハムだ。」と思ったのです。力不足は否めませんが、誠実に問題に取り組んでいます。しかし、自分の感覚の中では、何か大きな問題に支配されており、その問題に立ち向かっているのですが、せいぜいに一生懸命やっているというだけで何となく深い虚無感を感じています。その虚無感が「子供のいないアブラハム」ということでした。ある日イザヤ書を読んでいたときにこういう言葉に出会いました。
「わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。
救いを国にもたらすこともできず、地上に住む者を産み出すこともできませんでした。」

イザヤ二六章一八節
 この言葉が持っている意味合いと同じ深い虚無感がわたしの中にあります。それなりに精一杯やっているのですが、結果的には子供ではなく風を生み出すだけなのです。皆さんはどうなのでしょうか。

 わたしたちはいろいろと問題はありますが、信仰生活を行う境遇は持っています。求めればきりはないのですが、自分の信仰生活を送る術をもっています。しかし、それは自分のためだけと思えます。信仰生活を自分の問題を解決するうえで使っていますが、誰かの支えとなる意味で教会を作ろうとしてきたでしょうか。「囲いの外にいる羊」をも受け止められる状態でしょうか。そういう意味では、自分たちのためにしか生きていない小さな世界で「ああでもない。こうでもない。信仰とはこうだ。」ということをしているように思えます。そういう状態こそ、自分の生活は送れますが、子孫のいない「子供のいないアブラハム」と思えます。わたし達には本当は将来はないのです。今ある将来のようなものは自分にとっての住む家を持ったくらいの自分だけのためくらいの意味です。
 なぜか不思議なのですが、真理が発行されるようになり、わたしは創世記を担当しました。そして、今までのその大半はアブラハム物語でした。何か導きがあったかのような気がします。その物語を読んでいたからこそ、今の状態を虚無的に思えたのかもしれません。しかし、わたしは虚無的に感じたということで自分の人生を終えたくありません。せっかくわたしたちはアブラハムの物語を持っているのですから、ただそれを読んで終えるのではなく、アブラハムと同じく神さまの声を聞いて歩き出したいと思ったのです。
 この旅は自分たちの境遇を得るための旅ではありません。自分たちがもっとクリスチャンらしく生きられるという意味での旅でもありません。ただ、アブラハムがイサクを手に入れたように、子孫を手に入れる旅です。そして、その子孫が信仰生活を送る必要に応え得る教会を産み出す旅です。ですから、自分たちの問題は自分たちで引き受け解決をしていくのです。もし、自分たちの問題にだけ信仰を必要としているのなら、旅をする必要はありません。しかし、そうではなく、わたしと同様に将来がない虚無感を感じ、しかし、それでも霊的子孫のために立ち上がろうとする方があるならば、躊躇いのない参加を願います。その際に「そうしなければならない」という義務的な意味ではなく、「そうしたい!」という意思を持った参加を希望します。
 この旅はイサクを手に入れるという餌で人々に信仰的な高揚をあたえようとする安易な類のものではありません。そうではなく、わたしと同じ虚無感を抱いている、しかし、そこから立ち上がろうとする意味での旅です。そのためには、ただ誰かについていくではなく明確な自分自身の選択がないと開始できません。また、自己研鑽を引き受ける必要があります。人にかまけてアンチョコに良いことをしているではだめです。さらに、ただ単に約束の子を手に入れるだけではなく虚無とのいわば戦いですし、虚無を作り出している私たちの見えない敵、この世の支配との戦いです。すべては混沌から天地を創造された神の創造の業にかかっています。

イザヤ書に二六章一九節にはこう書かれています。
「あなたが死者の命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように」

死者の復活が本当に私たちの中で起こるのでしょうか?

                                                                                    新発田ルーテル・キリスト教会牧師
                                             士反 賢一


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