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創世記を読む
                創世記21章6節


驚きと喜びの笑い

「神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)をともにしてくれるでしょう。」

 神さまの約束の中に飛び込んでいったアブラハムの物語もいよいよ山場になりました。と言っても、私は神さまではなくアブラハムの方が信仰に立てるようになるという意味で大変重要な局面であるように思えるのです。なぜなら、アブラハムにとっては、高齢のサラとの間から子供が生まれるということが実際に起こるかどうかが彼の信仰の要のように思っているからです。
 今回改めてアブラハム物語を読む以前は、私にはたとえ神さまの約束が実現しなくてもその約束を信じて生きていることが大切でした。それはどういうことかというと、たとえば聖書に書かれているカナの婚礼のお話。そこではイエスは水をワインに変えるわけですが、たとえ「水をワインに変えてください」と私が祈っても、水はワインに変わりません。実際はそういう現実をいろいろ苦労して生きているわけですが、それでも私には水がワインに変わるという話は捨てきれないのです。そこで、よく聖書を読んでいくと、カナの婚礼の場合にはイエスが水をワインに変える際に「水がめに水をいっぱい汲みなさい」とおっしゃっているわけです。ですから、たとえ『水をワインに変えてください』という私の祈りは聞かれなくても、「水がめに水をいっぱい汲みなさい」というのは現実に可能なわけですから、徒労で終わることがわかっていても、通常に考えれば人間的にはそれを絶対選ばないわけですが、「水がめに水をいっぱい汲む」という意味での人生を選択してきたわけです。それが私にとって精一杯の信仰に歩むということでした。ですから、神さまがわたしの祈りを聞いてくださらなくても、私は神さまの命令を大切にして、その命令に対して完全には無理であっても、私なりの精一杯はしていこうと思ったわけです。それはあえて言うなら、信仰というよりも人間としての尊厳に生きようと言うことです。でも、正直なところ尊厳を保つという意味ではどこかで満足はできるのですが、やっぱり本当は水がワインに変わるという奇跡の中に歩みたいという希望があるのです。人間的にはばかげていることは十分にわかりきっています。しかし、聖書の物語を持ってしまった以上、本当はそのことを強く欲しています。
 今回アブラハムは神さまがまずアブラハムに約束して、彼はその約束に向かって進んでいきます。そして、結果的には二十五年後に約束の実現にたどり着くのです。彼は結局は約束だけではなく、約束の実現も手に入れるのです。私達はそのお話を知っています。そして、大切にしています。でもそういうアブラハムの歩みと自分たちを比べると違いが一つあると思うのです。彼は約束の中に歩んだ。それは私達も同じです。しかし、私達は約束の実現と出会ったでしょうか。もし約束の実現に出会っていないとするならば、私達はどこかでアブラハムと違った者であり、彼との比較の中ではいわば神さまの約束を知りつつもその実現は夢の中ですから、結局は蚊帳の外に置かれている。しかし、その中で生き続ける事をしていかなければなりません。果たして私達がそうであるなら、人間的ながんばりの中でいつまで謙虚さを保ち続けられるでしょうか。

 アブラハムは神さまから約束をいただきました。彼はその約束を信じて、生まれ故郷を出て約束の中への旅に歩み出しました。まず彼はカナンに到着しました。神さまは「あなたの子孫にこの土地を与える」と言いました。アブラハムは神さまの約束は本当だなと感じたと思います。歩み出してよかったと思ったと思います。しかし、飢饉があったのでエジプトに滞在しました。またカナンに戻ってくるのですが、財産の問題でロトとも別れていきました。ソドムに住んだロトを救出するために王たちとも戦いました。その戦いの勝利を祝福するメルキゼデクと出会って、改めて神さまの祝福を感じたと思います。がしかし、彼にはまだ子供が与えられません。再び神さまがアブラハムに現れたときに「わたしに何をくださると言うのですか。わたしには子供がありません」と彼は言いました。そのことばの中には、子供を強く欲する彼と、子供が手に入らなければ神さまの約束は彼にとって無意味となってしまうであろう意味合いが込められています。たとえ他の約束が実現しても、たった一つの約束、子供が与えられる約束が実現しなければ一切合財が虚しくなってしまう彼の存在。きっとアブラハムは最初に約束を聞いたときがすぐにも実現すると言う意味合いで信じていたのでしょう。そうでない現実の壁に対して彼の焦りが感じられます。
そういう焦りの中でアブラハムに神さまは今度は契約を交わします。あの約束はもはや口約束ではありません。双方の間で交わされた契約になるのです。そして、契約と言うより強い意味合いで、神さまは新たに彼を約束の中に招き入れていくのです。
 がアブラハムは待ちきれませんでした。女奴隷ハガルとの間に子を儲けます。そのことが今度は問題を作ります。この辺りからアブラハムは子供が与えられると言うことに強い疑いすら持っていました。
 信仰と言うものはある意味で、あるときは真剣に信じられ、しかしあるときは、そのことを信じて生きるしかなかった自分の小ささへの深い嘆きを強く感じさせるものです。しかし、その中には神さまに裏切られたかのような、のろいに近い思いも秘められています。でも、実に約束の中に歩くと言うのはそういうことなのでしょう。そういうアブラハムのあり方を不信仰と言うことばで片付けてしまうのはよくないと思います。そうではなく、アブラハムはあたかも神さまがなしたたった一つの「子供を与える」と言う約束に、あたかも引き回されるかのように生きてきたのです。そして、そのことをとおして自らの小ささを学んでいったのです。これが神さまのきよめのわざと言うものなのでしょう。神さまはきっと、ただ約束を与えると言うことだけではなくて、それを受けるにふさわしい人間へと成熟する業をも行っていたのです。しかし、そのきよめの業は受ける人間としてはつらいのです。

 とうとう約束の実現を受けるときが着ました。彼の旅は二十四年間にも及びました。そして、結局はその実現の告知を前に「笑った」のです。その「笑い」とは神さまの約束は人間にして見ればあまりにも馬鹿げた話という意味での「笑い」と、しかし、そうであってもそれを信じてもっともらしく生きるしかない自分の小ささ。神さまを呪いたくても、あるいはのろいを秘めていても結局は恐ろしくて神さまにはっきりとそれを言えない、そういう実は神さまに対して秘められた怒りをもっている。神さまの前にそういう自分を打ち明けられないジレンマの中で、しかしちゃんと生きているという様に神さまの前で生きていくしかない自分の小ささをあらわす「笑い」。しかし、実にそれが神さまの前での精一杯な人間の姿なのではないでしょうか。
 約束とその実現の中への歩みということは、そういうドラマもそこに含まれていたのでした。そして、そういう自分との出会いとともにアブラハムは約束の実現と出会っていくのです。

 約束が実現したときに、アブラハムとその旅を傍らで見ていた妻サラは言いました。
「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)をともにしてくれるでしょう。」
 神さまと神さまの約束とその実現。その中に生きていくアブラハム。そのあり方はすべて不思議な「笑い」話です。しかし、その不思議な笑い話が実現するとき、多くの人々が喜びとしての「不思議な笑い」を共にしていくのです。
 神さまへの不思議な感謝!

 

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一


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