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創世記を読む
                創世記19章30〜32節


神の約束

ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ。姉は妹に言った。
「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしのところに来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」


「来年の今頃あなたは子供をもうける。」、という言葉に笑ったアブラハム。前回のお話はそういう話でした。「神さまの約束はどう考えても人には笑い話なのだ。」、ということでしょうか。今、わたしたち教会は信仰を持っていますが、よく考えてみると、ある意味では笑い話を信じているわけです。「イエスが蘇られた」。教会の中でそのことが話される分にはあまり問題は感じないけれども、世の中で「わたしはイエスの蘇りを信じています」、と告白することを考えると、どこかでわたしたちは福音を避けています。わたしたちも福音を笑い話的に思ってしまうときがあることは否めません。

 さて、冒頭に引用した聖書の箇所は十九章の後半部分ですが、今回の話は創世記十八章十六節から十九章三十六節まで取り扱います。まず一度読んでください。

十八章から十九章にかけては、アブラハムに子供の誕生を告げたあの三人が、ソドムに下って行こうとするところから始まっています。その際、アブラハムと彼らは腹を割った話をするのですが、その内容はソドムの悪が大変ひどく、町を滅ぼすというものでした。ソドムには甥のロトとその家族がいました。アブラハムはこの三人と何とかソドムが滅びないようにとりなしのやり取りをしていきます。とりなしといえば信仰的ですが、そういう側面だけで読むのではなく、ロトはアブラハムと神の約束に向かっての旅をした唯一の親族でしたから、人間的な意味でアブラハムには特別な思いがあったのだろうと思うのです。そうやって考えると、あのとりなしのやり取りは、多分ロトとその家族だけは何とか救いたかったアブラハムの苦肉の策であることが伺われます。

やり取りの後、三人はソドムに向かいました。案の定ソドムはその反映の裏側に堕落した人々の営みが満ちていました。聖書はいつもそうですが、人間から見れば繁栄に満ちている人間の作り出した巨大文明の中に、人々の神への反逆を見出しています。バベルの塔でのバビロニアも然りです。ソドムもロトがソドムを選んでいくときに、そこは低地で緑豊かな町であったことを語っています。こういうよい土地は力があるものが手にすることができるものです。そして、豊かな恵みを利用して町を大きくしていきます。しかし、聖書は神的ではなく人の権力による町づくりに対して、そこには自らを神の座に引き上げようとする人間の被造物の分を超えた神への反逆を語り出すのです。

さて、アブラハムのとりなしの甲斐あってか、とりなしという以上に、ロトを思うアブラハムの心を受けてか、あるいは、ソドムを訪問したこの三人をロトが命がけで守り抜いたことあってか、この三人はロトとその家族だけに逃れ道を与え救出しました。ツォアル(小さいという意味)の町にロト一族はたどり着きました。逃げるときにいつもそうかもしれないけれど、前の生活にいつまでも未練がましくいるのはよくないようです。ロトの中にはより大きな力に身を寄せるという思いがあったかもしれません。しかし、ロトに対しては小さな町に逃げるように三人は指示します。何かを失うときに、人は小ささから逃げ出したくなります。失ったものを取り返したくなる思いに駆られるからです。しかし、神が示したもうロトへの救いは、あの小さい町でした。一度手に入れたものを失うときには、それを取り戻そうとすることよりも、小さい一歩と共に将来に目を向け開始したほうがよいようです。

「後ろを振り返るな」という忠告と共に救いが示された彼らでしたが、ロトの妻は未練があったのか、あるいはソドムの滅んでいく様子に興味があったのかはわかりませんが、後ろを振り返りました。結果、彼女は塩の柱となりました。

死海にロトの妻の塩の柱と呼ばれるものがあります。わたしは見ませんでしたが、妻とシオンはこの前のイスラエル旅行でそれを見てきました。シオンは、「そういうものか」というくらいの思いで受け止めたのだろうと思いますが、イスラエルの人々はあの塩の柱をどう見ているのでしょうか。ロトの妻の塩の柱は、確かにどう見てもそれが妻であったとは思えない巨大なものなのですが、救いということと共に歴史を歩んできた彼らにとって、わたしたちが感じる以上に真剣に神さまの救いの業として受け止めているのだろうと思います。助けが必要となったとき、人は大きいものに身を寄せるのだろうと思うのです。確かに神さまはその強い大きなみ手をもって彼らを救ってきました。しかし、神様の業は確かに大きいと聖書は言うけれど、その人への顕し方は、大概は小ささの中にありました。そう考えると、小さいことから開始することをはっきりと引き受けたほうがよいのだろうと思うのです。

 ロトは小さい町が心細かったようです。あまりにもその町が小さいので、ソドムの滅びの影響を受けそうで彼らは安心できず、山の洞窟で彼らだけでの生活が始まりました。しかしロトはいいのですが、その娘たちはそれでは男を得ることができません。このままでは彼らは滅んでいってしまいます。そこで娘たちは相談し、父を酔わせ、その間に子供を作ることにしました。今風に考えれば変なお話です。あるいは近親相姦ということも言えるかもしれません。しかし、聖書はそういう観点ではなくて子孫を残すことの大切さを真剣に考えています。ですから、この話は近親相姦で悪の話なのだ、ということではありません。 

 このことがあって、娘たちは父の子種から子孫を残していくのですが、こういう娘たちの子供を手に入れる方法と比較したいことがあるのです。前回の真理で、アブラハムへのイサク誕生の予告を取り扱いましたが、今回、アブラハムのとりなしやソドムの滅びを取り扱いつつ、ロトの娘たちの行為についてまで書くことにしたのは、アブラハムの子供の手に入れ方と、この娘たちの子供の手に入れる方法とを比較したかったからです。

最後の最後まで、確かにいろいろな手段はとりましたが、結局は神さまの約束によって子供を手に入れるアブラハム。しかしその一方で、父を使って子供を手に入れる娘たちの行為があるわけです。多分、わたしたちの歴史においては、結果的にロトの娘たちのやり方、つまり人間的なやり方で危機を乗り越えてきたことが圧倒的だったのだろうと思います。しかし一方で、笑い話にしか聞こえてこない方法で子孫を手に入れ歴史を作ってきた人々がいました。

わたしは、安易にアブラハムのように生きようとは言いたくありません。しかし、笑い話的な方法を通して働かれる神様がいることだけはちゃんと心に、体に刻み付けて行こうと思うのです。多くのときをわたしたちは人間であることに専念すべきです。ちゃんと人間であることを引き受けるべきです。しかし、そのわたしたちの只中で、笑い話のようなあり方でかかわってくださる神様がいることを心にとどめておきたい。そして、それぞれの人生の中で、しかもその要で、この神さまが働かれる時を妨げることが無いようにしていけたら、と思うのです。

 普段当たり前のように聞いている福音。時に厳しく、時にたわいなく、真剣に信じよういといしても逃げられ、忘れたころに働いてくださる。そのような福音ですが、本当に取り扱いが厄介なのです。なかなか神さまと思いが通じないのです。しかし、福音を心にとどめ、み言葉と共に働いてくださる神さまを、個々人の相応しいあり方で大切にしていきたく思うのです。

 神に感謝!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一


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