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創世記を読む
                創世記18章4〜5節


迎える

「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持ってこさせますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」
 「では、お言葉どおりにしましょう。」


前回の続きです。前回ではアブラムと神との間の契約が結ばれ、アブラムがアブラハムと呼ばれるようになりました。今回の話は同じ内容を取り扱っているのですが、契約を結ぶという改まった儀式めいたことではなくて、日常的な出来事が記されているようです。内容は、前回と同じ子供の誕生をめぐっての主題です。

 その話しに入る前に、アブラハムと神とのやり取りを見ていくと、神にとっての関心ごととアブラハムにとっての関心ごととにずれがあるように思えます。神にとってアブラハムを選んだ理由はアブラハムを通して世界に祝福を広げていくということですが、アブラハムにとってはそんな大きな視野で神をとらえているのではなく、自分に子供が生まれるかということが最も大きな問題でした。彼にとってはこの一点が実現しない限り、神の大きなご計画は他人事となってしまうようです。実に、このことはわたし達の信仰においても同じように思えます。どんなに神が大切にされ熱心に信じられても、自らへの神様の約束が実現しない限り、どこかその信仰は第三者的に見てよそよそしい感じがします。ラザロが、多分彼は信仰を持ったと思えるのですが、生き返ったという事実と共にあるときに、彼の信仰は意味深いものとなってくるのではないでしょうか。そういう意味で考えると、信じるものにとって、アブラハムの子供が生まれるという神のわざと同じものを私たちが受けない限り、わたし達の信仰は、第三者から見て熱心さは評価されるけれども、よそよそしいものとなってくるのではないでしょうか。そういう意味で、個人的に神の約束が実現する現実がないと意味を失ってしまいます。多分第三者にとっても、そして本人にとっても、そして、本人がいくら熱心に信奉したとしても結局はどこか空回り的にしか生きていけないように感じます。パウロの言葉を思い起こします。あの『もし愛がなければ』の有名な愛についての歌です。どんなに熱心に説教し、証され、さらにキリストの業に励んだとしても、もし愛がなければ、というように、それをアブラハム的に言うなら、神の約束が彼の中に実現しない限り、第三者にとっても彼自身にとって信仰はどこかよそよそしく空しいのです。アブラハムにとって、子供が生まれるという彼個人への祝福が実現しない限り、世界への神の祝福というのは遠い夢話なのです。そういう意味で、わたし達こそ、実に神の奇跡の実現を受ける主体なのではないのでしょうか。わたし達こそどういう形かわからないけれども、神の奇跡を受けない限り、宣教という言葉は語れても、出て行けない、何か小さな世界でしか信仰できない、ちっぽけな生ですべてを終えてしまうのではないでしょうか。わたし達がまず宣教するのではなく、わたし達こそまず神にもう一度宣教されなければならないのではないでしょうか。でも、いつまでも宣教される側ではいたくはありませんが。

 さて、前振りが長くなりましたが、子供誕生をめぐっての主題を取り扱っているテキストです。そういう意味で、前回と同じです。しかし、内容を見ていくと、前回は神がじかに現れて契約提携を行っている、つまり礼拝的であり、儀式的です。それに対して、今回は三人の人が彼の前を通り過ぎていくという、日常を場面としています。ですからこういうことがいえるかもしれません。神との契約締結というものは式場とか舞台とか何か改まった場で行うものと思えるかもしれないが、こういう日常的なことで行っているのだ、と。今風に言えばたとえば結婚。結婚式は盛大に行うけれども、当事者間で二人だけで選択したことが、実に聖書においては一番大切にされることです。でも、何となく式に力点が置かれがちです。中世において、結婚式は教会の入り口の外で行われました。そこで当事者がサインをして式を終えるのです。そして、教会に入って、結婚祝福式を行いました。多くの方に思われている教会の結婚式というのは実は結婚祝福式なのです。

 神は、儀式的に理解されがちですが、日常において豊かに働いております。そして、あの日アブラハムは三人の旅人をもてなすことにおいて、神の約束の実現の告知を聞くのです。ヘブル書で旅人をもてなしなさい。ある人は知らないうちに神の使いを招いたのです。ということが書かれていますが、その言葉の原因は、このアブラハムの出来事でした。多分アブラハムはこの人々が神の人であるという意味で、迎え入れたのではなく、アラブの社会で一般的に行われている慣例に従って、そのことを行ったのだと思えます。アブラハムが、昼間木陰で休んでいるというのは、日中の気温が四十度にもなる社会では当たり前のことです。しかし、その炎天下を歩く人がいる。何か理由があるからです。あるいは、そういう人を見かけたら、休みの場を与えるというのが隣人としての勤めではないでしょうか。彼はそれを行った。だれでももてなせばいいというものではありません。しかし、今の社会ではそうですが、誰かの隣人としてのわたしという概念がたかりや利用されること、名を売ること、あるいは、あまりにも人から要求されすぎてしまって疲れてしまい、その結果捨てられてしまいがちです。それらのことは大きな問題ですが、しかし、境遇がそうであってもやっぱり大切なことです。そして、アブラハムの場合、あの三人の隣人として彼らを迎え入れたところで、実に、それが神の使いとしての彼らであり、予告を聞くのです。

 そうやって考えるとき、いくら儀式的にキリスト教が守られても、日常で隣人としてのわたしが捨てられていくなら、結果として神の恵みを拒み、自らの手ですべてを手に入れていかなければなりません。今の時代は、そういう意味で、隣人のわたしが捨てられた時代のようです。茶道や作法を習い、高度な招きの技術を身につけても、隣人のわたしが捨てられているならば、それは結果的に、自らを小市民としていたいだけの自己本位なものとなっていきます。せっかくもてなす方法を手に入れているならば、それと同時に隣人としてのわたしをも取り戻したいものです。神は隣人のわたしというところで出会ってくださいました。そして、アブラハムに子を与えるのです。

 最後に、アブラハムが子供を預かるということ、いわば神の奇跡を受けたということというのは、人間社会に生きていくという意味では大変厄介なことのように思えます。そのことによってこの世の価値観を捨てていかなければならないからです。ラザロが生き返った、それはすごいことですが、そのことによって、彼は見世物にもなるし、他の人から変人・別人として扱われます。先に、わたし達こそ神の奇跡を受けねばならないということを話しました。それは、聖別されていくという覚悟をともなうことに注意しなければなりません。つまり、この世ではよそ者になることを意味します。聖書の言葉では寄留者です。奇跡を受けて喜ぶということがあったとしても、世との離別がともないます。世との離別こそ実に中心ごとです。多くのキリスト者は、その奇跡とこの世からの自分に対しての正当な評価の両方を手に入れようとしています。しかし、そうではなく、一つだけしか手に入れることは出来ません。

 アブラハムにとって子供が授かることは嬉しいことだったかも知れません。しかし、それは決定的に、この世に対して寄留者として生きることでもあったのです。この問題に対して、私たちはどこかで感じといっています。そして、この世での評価の問題があるゆえに、前に行くことをためらいがちです。この世に対して恐れを持っているかのようです。

しかし、最後に言いたいのですが、わたし達が神の奇跡を受けたいか受けたくないかを別にして、また、この世への恐れを持っているのも事実ですけれど、そういう問題をすっかり超えてしまって、神様の方は、わたし達それぞれに固有の約束とその実現を与え、聖別していかれることだけは確かです。どうも、すべてをすっかりゆだねてしまった方が良いようです。

神に感謝!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師 士反 賢一


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