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                創世記17章19節


笑う

いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のための永遠の契約とする。

皆さん覚えているでしょうか。神とアブラムとの間に一度契約が結ばれたことを。それは十五章のお話の中に出てきます。新共同訳聖書では「神の約束」という表題になっていますが、そこでは表題でこそ「約束」という言葉を使っていますが、実際には祭儀的契約締結を行っていますので、契約をしていることになります。ですから、今回の聖書の箇所十七章は二度目の契約締結となります。ただし、ここでは割礼を行うというユダヤ人にとって特異な儀式が絡んできますので、そういう特異な意味を表すために表題では「契約と割礼」としているようです。

二度にわたって神さまはアブラムとの間に契約締結というのは、実に私にとって興味深いのです。契約は本来一度でいいでしょう。でも、現実には、一度約束をして、そして約束日の前日くらいに確認の電話をかけたりします。特に、絶対守らなければならない約束ならばそうします。

 つい最近マルコ福音書を読んで、その中に目の見えない人がイエスによっていやされていく記事がありました。その際、イエスはまず一度目の見えない人に触ります。彼はいやされます。しかし、ぼんやりと見える状態に、です。そしてもう一度イエスは彼に触ります。今度ははっきりと見えるようになっていきます。このお話を読んで、しかもマルコ福音書の脈絡から考えていくと、マルコはイエスに二度触られることを読者に求めているように思えてきました。ルターのまず修道院に入ります。それはあたかも一度目のイエスとの出会いのようです。そして、塔の体験で二度目のイエスとの出会い。そして、二度目の出会いで、鮮明に福音と出会っていく…。私自身の人生においても二度目的なイエスとの出会いをこの教会で経験したかのようです。二度目の出会いとは、ぼんやりからはっきりと見える的な出会いです。癒しです。

 神さまがここで、アブラムと二度目の契約締結を行う。そのことを考えるとき、わたしは、神さまが約束を守ることは確かなのですが、それ以上に、約束に信頼を置ききれないアブラムを無理やりその約束の中に取り入れてしまおうとしているのではないか、と思えます。そういう神にあって、彼は信仰の父にされていった、と思えます。そのことについて、契約締結を行う際の神とアブラムとの間でなされたやり取りが、大変興味深いです。そこを振り返ってみましょう。

 アブラムが九十九歳の時に、神さまはまたアブラムの前に現れました。一番最初に現れたときがアブラム七十五歳でしたから、あれから二十四年の歳月が経っていたわけです。長いですね。

 さて、アブラムが九十九歳の時神さまが彼の前に現れるのですが、まず、神さまから神に言葉を語りかけます。それが、一節から十六節まで。実に文章が長いのですが、基本的には十二章で最初にアブラムに言った言葉と何も変わりはありません。あえて違いを語るならば、というよりもつけたしがあって、それが割礼を行えということと、アブラムの名前、更にはサラの名前をそれぞれ、アブラムからアブラハムに、サライからサラへ変更するということです。アブラムからアブラハムへというのは詳しくは分かりませんが、アブ+ラハム(ハモーン)で、このラハムのもととなったハモーンは「多い」という意味。この改名が意味するのはある人が王に即位する際に、新しい王位名を受けることと対応していて、この契約締結にあってアブラムは、一介の族長から王へ、つまり聖書の略楽から考えるとイスラエルの父へ、または、諸国民の父へと高められたわけです。

 サラというのも女領主という意味で、一般にもそうですが、ある人が王に任命されるとその妻も王妃になります。大統領だってその妻がファーストレディーと呼ばれます。そうやって考えると、いよいよ神さまがアブラムとの間で約束したことが実現するという緊張感が伝わってきます。しかし、それは神さまの側から伝わってくる緊張感です。 

それに対してアブラハムは冷ややかでした。態度こそ神さまにひれふしていましたが、彼は笑いました。そして、ひそかにつぶやきました。

百歳の男に子どもが生まれるであろうか。九十歳のサラに子どもが産めるだろうか。』そして、神さまに聞こえる言葉ではこう言いました。
どうか、イシュマエルが御前に永らえますように。

アブラハムはもう分かっていました。一番最初神さまがアブラムに現れたとき、何故か彼は神さまの約束に従う道を選びました。多分、彼はわかっていたと思います。七十五の男と六十五の女との間に子どもが生まれないことを。しかし、養子縁組の手だってある。また、女奴隷を使っての手だって正当な手段である。だから、全くないわけではない。どういうふうに開かれていくか分からないが。まあ一丁やってみよう。あるいは、やっぱり人間夢に生きていきたい思いだってある。その思いを抱いて生きるのもよし。どういう思いであの最初の一歩を踏み出したかわかりませんが。しかしアブラハムは、あの時いらい神さまの約束のとりこになっていたのは事実です。実現しっこないことは分かっていてもあの約束を信じて生きていきたかった。そして、時に約束を信じきって無邪気な子どもにもなったし、まじめな大人になって養子縁組や女奴隷を使って手に入れようとしてイシュマエルが生まれた。しかし、冷め切ったニヒリストにもなった。

 アブラハムは神さまの前で、しかし、神さまには分からないように笑いました。何故笑ったのか。私が思うに、この段階では、神さまの約束がどうのこうのというよりも、自分に笑ったのではないか。そこには、本来的には神さまを信じきれない人間の、しかし、それを信じて生きてしまう何かこっけいな。真剣になればなるほど、心のどこかで信仰に冷めていく現実。しかし、同時に抱く信仰への強い憧れ。日本文学で言うのなら『平家物語』に出てくる兵どもの夢の後、とでも言うのでしょうか。

 結局、神さまの約束を前にして、人はそれを笑うのです。そして、その人を心と関係なしに、神さまは、約束を実現していくのです。

 改めて思います。神様の約束は信じきれるものではないということを。しかし、その言葉は人を捕まえ、人を約束の中に導いていく。私として、今となったら、大人として信じきらないが、一方無邪気な夢に憧れを持つ子どもとして、神さまの約束の中に飛び込んでいこうと。わたしもアブラハムと同じ、神様の約束を笑うものとして生きることを真剣に受け止めようと。ただ真面目ずらして生きることよりもニヒリストの大人と、無邪気な子どもとを同時に持って、しかし、やっぱり神さまの約束の中に飛び込んで行こう、と。

 私はまだ年寄りではありませんが、しかし若者でもありません。ある意味で、遅すぎた人生が開始されています。そのことを考えるとき、本当にアブラハムのような人生に身を投じることも大切な意味があるように思えます。一方で、別な選択肢もあります。それを選んで、世の中をうまく渡っていくのもよし。ある程度の地位を獲得し、家族と幸せな人生を生きるのもよし。でもそうすると、今までいろいろな人から言い訳をたらたら聞いたように、私もうまくできた言い訳を言いながら生きていってしまいそうです。何かそれがいやで仕方がありません。

 やっぱり神様の前で結局は笑うものでしか生きられないけれど、神様の約束の中に飛び込んで生きてゆきたい。私の最後の選択肢として、結局はそれを選びたいのです。

神さまは、笑うアブラハムを目の前にして、その言葉を変えようとはしません。

いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のための永遠の契約とする。

神さまは、何故か、アブラハムと立てた契約を淡々と実現に至らしめていきます。そして、この約束の実現にアブラハムは出会っていくのです。

神に感謝!

新発田ルーテルキリスト教会牧師

士反 賢一 


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