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創世記を読む
                創世記16章13〜14節


エル・ロイ

あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。

 この章はアブラハム物語として読んでいいのですが、わたしとしてはアブラハム物語の登場人物を使って「神様はどなたですか」という一つの問いに対しての答えのようなお話のように思えます。その答えは「エル・ロイ(わたしを顧みられる神)」ということなのですが、それはいったいどういう意味なのでしょうか。お話を読みながら考えます。

 アブラハムに子を与えるという約束から十年が経ちました。相変わらず、アブラハムは子どもを授かりません。彼らは約束を信じていたといえますが、十年と言う月日は長いのです。今神さまを信じている人で「十年後もわたしは信じています。」と言うことができるでしょうか。もしいえる人がいたとするなら、わたしの方では何か信仰を勘違いして受け取っていると考えてしまいます。「信じている」というのは、今についてしか言えないことです。そういう意味で、アブラムは妻サラの要求に答え、若い女奴隷ハガルとの間で子どもを作ることを選択していくのですが、これを教会で一般に使っている不信仰という言葉で言ってしまうことは安易だと思います。ここでは、もっと深いちょっと難しい言葉になりますが実存的に受け止めていく必要があると思うのです。

 サラには結果的には十年経っても子どもが生まれませんでした。彼女は神さまの約束を忘れていたわけではありませんが、それでもなお、女奴隷を使って自らの子を作ろうとする姿に当時の社会にあって子を産む機能を果たさない女性が蔑視されていたことが彼女の言葉から伺えます。それは今でもあります。新発田のある病院で夫を戦争で亡くし、子どももいなかったので離婚させられた方とお話したことがあります。女性と結婚したのでしょうか。それとも女性の役割と結婚したのでしょうか。

 サラが女奴隷を使って夫との間に子どもを作ることは当時の社会で認められていた正当な手段だったようです。そうやって子をもうけるのですが、今度はハガルとの間で大きな問題がおきます。ハガルが主人であるサラを軽んじるということになっていったのです。社会が機能を果たさない女性を蔑視しているだけではなく、実に機能を果たさない女性をたとえ主人であっても自分よりも地位の低いものとみなし蔑視する同じ問題が女性そのものの中にもあるわけです。サラとハガルの間で起きた問題は、人間に共通する問題ではないでしょうか。また、アブラハムも、サラに対して気丈に振舞うことはできませんでした。サラに対して「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい。」と言って、人任せ的あるいは、事の成り行きに任せるしかない様子です。そうやって考えるならば、わたしたちはアブラハムを信仰の父としていわば信仰の理想として見てしまいがちなのですが、彼らは何かきれいな特別な人間ではなく、どろどろとした問題を持った一人間であることが見いだされてくるでありましょう。

 サラはハガルにつらく当たりました。いわばいじめです。暗黙のうちにハガルを追い出す作戦を取りました。言葉で「お前は出て行きなさい」ともし言ったのなら、まだどこか公的な解決策となったと思うのです。でも、つらい態度をとって追い出すという作戦に出ました。今風に言えば肩たたきと同じです。だれも「首を切る」悪役を引き受けないのです。

 ハガルはサラの元を離れ旅に出ました。旅というのは本来温泉に行くとか、見学に行くとか何らかの目的があるものを考えます。しかし、彼女の旅は逃れの旅、そこを出ることが目的でありいわば行くあてはないのです。マタイの福音書に「わたしが旅をしたときもてなし…」と言う言葉を覚えているでしょうか。あの時の旅も同じです。行くあてがない放浪の旅のことを言っています。ところがこういうどろどろとした人間模様の只中に神が現れたのです。信仰的な人々の間にではなく、です。実に信仰の始まりは信仰者の間ではなく、どろどろとした人間関係の狭間で、です。今わたしたちはもう既に信仰を持っていますから変な行動を取らないようにしようとします。しかし、それがゆえに、お決まりの形にはまり奇麗事に生きてしまうという結果になることが多々あるのではないでしょうか。アブラハムの旅は確かに信仰の旅です。しかし、その際考えなくてはならないのは、奇麗事ではないということです。彼らは問題を持っていた。そして、その問題を積極的に引き受けて精一杯歩んでいた。その歩みに神が介入し、導いた、そういう意味での信仰の旅です。きれいに自分の人生を纏め上げるような作り事の旅ではなかったのです

 ハガルは荒野にある泉のほとりにきました。何故かわからないが、そこで神の使いに出会ったのです。み使いは尋ねます。
「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこに行こうとしているのか」
ハガルは答えます。
「女主人サライのもとから逃げているところです。」
ハガルには出たところはあっても行くところはないのです。み使いは言います。

「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。
更に、
「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」
その言葉を聞いて、ハガルは、語りかけた主の名を呼びました。その名がエル・ロイです。この言葉直訳するとエルは神さま、ロイはわたしを見ている、となります。訳し方によったのなら「神さまはわたしを見ていてくださったんだ」とも訳せます。もた、一般的に訳されているよういに、わたしを顧みてくださる神とも訳せます。ともかく、ハガルは逃亡の最中に見ていて下っていた、あるいは分けありの女であっても目に留めてくださる神さまに出会ったのです。そして、その神にあって彼女はまたサラの元に返っていたのでした。

 わたし達、新発田教会も同じではないでしょうか。今までやってきたことはあります。しかし、将来に対してハガルのように行くあてを持っているでしょうか。せいぜい、将来に目を向けるとき、わたし達の問題と、結局流されていくことを選んでしまうことが現実的に思い浮かべるのではないでしょうか。それほど、今は悪い状態です。外から助けられることはないのです。しかし、そのわたし達にエル・ロイが語ります。「お前は新発田に帰れ。そこでお前の子孫を増やす」

 ハガルには信仰はありませんでした。しかし、その女に神は豊かにご自身を顕しました。わたし達も変なプライドの信仰を捨てハガルのように逃げている自分をその神にさらけ出すとき、エル・ロイとしての神さまに出会うのかもしれません。わたし達の将来は新天地での生活ではありません。ハガルのようにサラのもとでの生活なのです。新発田での生活なのです。しかし、エル・ロイの神と共に立つときに、そこに豊かな祝福があることを見出すでしょう。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

                                                                           士反 賢一


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