「真理」って何? 真理のTOPページへ

創世記を読む
                創世記15章4〜6節


神の約束


見よ、主の言葉があった。
その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」

 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることが出来るのなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

創世記十五章は
「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。」

という書き出しで始まります。ここで考えたいことは
「これらのことの後で」と言うのは一体何を言っているのかということです。これについては十四章を振り返らなければなりません。そこには、肥沃な土地で繰り広げられる王(権力者)たちの利権争いに巻き込まれた甥ロトの救出劇が描かれています。では、このロトの救出が一番大切なことだったのでしょうか。どうもそうではないようです。同胞ロトを救出したアブラムのあり方については、確かに大切なことで本当は考えなくてはならないことですが、今回は省略します。それよりも、ロトを救出した後、アブラムはどうしたでしょうか。ソドムの王といと高き祭司サレムの王メルキゼデクが凱旋したアブラムを迎えました。そして、アブラムは神の祝福を伝えるメルキゼデクにすべての十分の一をささげます。まずこの行為が大切なことの一つ。そして、多分それに深く関係してくると思われるのですが、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください。」と申し出たソドムの王に対して『あなたの物は、たとえ糸一筋、靴の紐一本でも、決していただきません。『アブラムを祝福したのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません』と、きっぱりとこの世の権力から受けようとはしなかったことです。アブラムは、祝福をただ神からのみ受けようとしているのです。

 アブラムが神に呼び出されて、その言葉に従って旅を開始した頃はまだ、神の祝福を受けることについて彼は確かにそれを信じていたにしても漠然としたものであったと思います。しかし、ソドムの王から祝福を受ける(ここで考えられている祝福は単純に富みを手に入れると言うことです)ことをアブラムは辞退した。その理由はアブラムの言葉で言うと「アブラムを富ましたのはこのわたしだ」と言われたくないためにです。アブラムは確かに祝福(富むこと)を求めています。しかし、ただ富めばよいのではない。神によって祝福されること、すなわち富むことを選びます。ここに彼の信仰の成長を見ます。もし彼がソドムの王から富をもらうことが起きれば、彼は自由を失い、ソドムの王の支配の中に置かれるでありましょう。そういう意味では、彼は別な言い方をすれば自由への道を選んだのです。

 神によって富む道を選ぶこと、別な言い方をすれば自由に生きる道を選んだこと、そのアブラムに神は再び現れ、再び契約を結びます。それが十五章全体のお話です。しかも、一番最初神がアブラムに現れたときはいわば口頭約束の祝福でした。それはあたかもアブラムにとって秘密ごとのような約束でした。しかし、今回は祭儀的に言い換えれば契約書を交わしてのいわば公的な約束を交わします。その約束を交わす神にアブラムは自らの思いをぶつけます。つまり、神はまだ子どもを下さっていない、ということです。神はアブラムを外に連れ出し、夜空を見上げさせます。そこには到底数えることが不可能な数の星が輝いていました。そのときアブラムはただの星を見たのではありませんでした。天地創造の神にあって創造された星を見たのです。そして、彼は自らは子ども作れない状況にあることを知りながらも、無から創造する神の業にあって子どもが生まれることに信頼を置いたのでした。人間的にある意味でばかげた話です。でも彼は、そのばかげた話の道に向かって再び歩き出したのでした。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

                                                                           士反 賢一


「真理」TOPページへ  人を裁くな(17)   ルカの福音書を読む(17) マタイの福音書を読む(17)