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創世記を読む
                創世記14章22〜24節


祝福をめぐっての旅

「私は、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。わたしは何も要りません。ただ、若者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」


ロトと分かれたアブラム。分かれるときにアブラムはロトに先に好きな土地を選ばせました。ロトが選んだのはヨルダン川流域の低地一帯です。その地帯は「ツォアルにいたるまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限り潤っていた。」と聖書は記しています。アブラムはロトに優先的に土地を選ぶ権利を与えましたので、ロトはそれを使って良い土地を選んだわけです。ところが、良い土地と言うものは誰でも単純に欲するものです。ましてや、アブラムとロトは放牧の民でしたので、他の人々や民族が既に住んでいるところに寄留していたわけです。ロトが選んだ土地は確かに良い土地でしたが、「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。」と、聖書は記しています。その良い土地に住んでいた人々の間には、個々の利益を求める欲望が渦巻いていたわけです。そういう世界では自らの優位さをめぐって争いも起こります。十四章一節から十二節にかけてはそこで繰り広げられた王たちの戦いの記事が記されており、その戦いの中でソドムに住んでいたロトは財産もろとも勝者の戦利品として連れ去れて行きました。(十二節)

戦いから逃げ延びて来た一人の男が、アブラムのもとに来て、ロトが連れ去られたことを知らせました。アブラムは立ち上がります。彼の家で生まれた奴隷で訓練を受けたもの三百十八人を招集し、夜アブラムと僕たちは分かれて敵を襲い、敵が奪った財産を取り返しました。アブラムが凱旋したときに、ソドムの王は王の谷と呼ばれるところまでアブラムを出迎えました。このソドムの王とアブラムのやり取りについては今回の中心テーマですが、後で取り扱うことにします。

ソドムの王がアブラムを出迎えた時に、もう一人不思議な人物が登場します。この人物は旧約聖書の中では一度だけしか登場しません。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクです。考古学的にサレムというのは、現在のエルサレムを言っているといわれています。ところで、イスラエルにおいて、エルサレムが首都として機能するのは、ダビデ王朝のことで、ダビデが十二部族を取りまとめる上で、どの部族にもまだ属していなかったエドム人の町を攻め取り、そこを首都としました。ダビデは王として十二部族からなる共同体をイスラエルという王国して統治する際に、十二部族間の偏りを無くすためにどこにも所属していない町を首都としたのです。賢明な措置だと思います。さて、その後にエルサレムと呼ばれるサレムの王で、いと高き神の祭司メルキゼデクが凱旋したアブラムにパンとぶどう酒を持ってきて、そして祝福の言葉を送りました。

「天地の創り主、いと高き神に
アブラムは祝福されますように。
敵をあなたの手に渡された
いと高き神がたたえられますように。」


 メルキゼデクは王ですが、ここでは祭司としての存在に強調点が置かれています。その際に「いと高き神の祭司」となっています。『いと高き神』というのは「エル・エルヨーン」という言葉で、本来はカナン人の神の名前なのですが、これが聖書の神の呼び方の一つにされていきます。使徒言行録でパウロが宣教活動をしているさなか、アテネで「知られざる神に」という名の知られていない神の祭壇を見つけたことを記していますが、カナンでは『いと高き神』という名で本当の意味で神は知られていなくとも、神礼拝が行われていたのであろうと推測されます。そして、イスラエルはそれを彼らの固有の神に結び付けて言った、と思われるのです。

 このメルキゼデクについて、新約聖書ではヘブライ人への手紙の中でこう記しています。

「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でありましたが、王たちを滅ぼして戻ってきたアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべての物の十分の一を分け与えました。…彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また生涯の初めもなく、命も終わりもなく、神の子に似たものであって、永遠の大祭司です。」

 つまり、このメルキゼデクを新約では神的存在と捉え、キリストの雛形として語っています。あるいは、その唐突な聖書での登場とあり方を捉えて、キリストそのものとして取り扱っています。新約においては、キリストは歴史的には二千年前にお生まれになったのですが、しかし、一方で神の子として、歴史の始まる前に既にいたとしています。このことを「先住」といっています。このあたりはややこしい話となるので、あまり触れません。

 多分メルキゼデクがアブラムにパンとぶどう酒を渡したのは、考古学的には戦いのねぎらいの故であろうと思われています。しかし、教会的にはパンとぶどう酒ですから神的な意味合いで捉えてもいます。つまり、メルキゼデクをほとんどキリストとして、そして、キリストの差し出したパンとぶどう酒との関係に結び付けて考えています。そして、イエスの誕生していないアブラムの時代にあっても、その時、アブラムはメルキゼデクをイエスとは思わないでいても、しかし、教会は既にアブラムの傍らにイエスがキリストとしており、そのキリストがアブラムにパンとぶどう酒を差し出し、祝福していたと捉えています。これは信仰的に正しいことです。洗礼を受けたある方から、こんな話をいただきました。「神様を知ったのはつい最近ですが、信仰が芽生えたときに、自分の人生を振り返ると、何時も傍らに神様が居られたんだ、と感じます。」このことについて話す方は一人二人ではありません。そして、わたしもそういう感覚をときに覚える一人です。「先住のキリスト」という言葉で言ってしまうと難しい話になりますが、こういう日常的な言葉で言われると、何か共鳴するものを素直に感じます。


 さて、今回の真理で最も書きたかったことは、ソドムの王とアブラムとのやり取りの箇所です。そこで、今回冒頭にその聖書の箇所を掲載いたしました。敵を追い払い財産を取り戻したアブラムは、それを取られた側のソドムの王の所に持ってきます。そして、ソドムの王に彼が奪い取られたものを、いわば必要経費は差し引いて返すのです。このやり方が実にわたしには興味深いのです。本来的には、戦利品はそれを奪い取った人のものです。しかし、アブラムはこの戦いを親族ロトの救出のために行い、そして、ロトには彼の奪い取られた持ち物をすべて返します。この件については問題はありません。しかし、ソドムの王に対してはその義務は全くありません。また、聖書を読む限りにおいてソドムの王はロトに好意を持っており、ロトを丁寧にもてなしていたとは思えません。聖書が記している範囲から推測すると、ソドムは個々の利益を求める人々の場ですのでロトのことを優遇しているとは思えません。しかし、「人はわたしに返してください。しかし、財産はお取りください。」というソドム王の申し出を何故辞退したのでしょうか。それはアブラムの言葉に託されています。
 「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません」

 皆さんは、このアブラムの言葉をどう思いますか。アブラムの人生は、こと神に出会ってからの人生は、神の祝福をめぐっての人生でした。先に、アブラムに対して神は『子を与える』をいう約束をしていますが、全体的に読むならば、『おまえを祝福する』という神の言葉に向かっての旅だったわけです。そして、ソドムの王に対するアブラムの言葉には、アブラムがこの祝福に留まろうとしている、あるいは祝福の中に生きようとしている強い思いが見出せます。今彼は、神の祝福に生きることにそのすべてを投じているのです。この祝福にすべてを賭けているのです。神の祝福とは何だったでしょうか。一度この真理でお話しましたが、「自らの手で作り出していく力」です。そしてそのときに注意して考えなくてはならにことは、自分に出来る能力があるからでは全くありません。アブラハムの場合、そのことについては、既に年老いていて子を授かることが出来なかった、という言葉で示されています。ですから、聖書が言う『神の祝福』というのは、能力があるから生み出せる、作り出せるというのはなく、根本的な問題を持っていて作り出していくことから程遠いところに生きてしまっている、そういう意味では全く可能性がないにしても作り出していく人生というもの、それが神が祝福してくださっている、ということです。そして、それが神の祝福に生きていくということです。アブラムは、後に聖書を読んで行けば分かるのですが、彼はある意味では神の約束に信頼し切れなかった。特に自らの子供に関してはそうです。それゆえ、子が誕生したときに笑い、その子が『イサク』(笑う)という名前となったのです。しかし、そういう側面を持ちながらも、しかし、ここでのアブラムは、全身全霊神の祝福の中に生きようとしています。彼は人からの祝福などを受けようとしているのではない。ただ神様からだけ祝福を受けようとしているのです。そして、改めてそのことを思うときに、アブラムの旅は、一般的に信仰の旅と言われてしまいますが、神の祝福を巡っての旅であるといえるでありましょう。そして、それは先の言葉で言い換えるなら『自らの手で作り出していく旅』といえるわけです。わたし達は往々として、夢がかなえばそれでいいと思っている。うまくいけばそれでいいと思っている。しかし、神信仰が『神の祝福をめぐっての旅』であり『自らの手で作り出していく』ということと深く関わっているとするなら、ただ夢が実現すればそれ言いということではない。希望がかなえばそれでいいということでもない。うまくいったからそれでいいということでもない。そうではなくて、助けられなければならないことは多々ありますが、自らが自らの手で作り出していく主体となって実現させていく人生を歩むべきです。

 詩篇百二編十九節にこういう言葉があります。

 後の世代のために
    このことは書き記されねばならない。

   「主を賛美するために民は創造された。」

 わたしにとって『賛美する』というのは自らの手で作り出していくということと深く関係しています。ただし、ここで言う『賛美』とは音楽的なということに限定されません。ただ賛美できればそれでいいのではない。ただうまくいけばそれでいいということでもない。わたしの深いところには、神様にささげたいものがあります。多くの先人たちがそうであったように、わたしもその先人たちの末席に座って、自らの手で作り上げた賛美を神様にささげたいのです。そして、そういう物事の考え方というのは、キリスト教固有のものなのかもしれません。

 キリスト教信仰というものは、一般的には、倫理的な正しさや型にはまった生き方と結びけられがちですが、その本質は、実に『祝福をめぐってのアブラムの旅』にその原型がおかれている、と思うのです。もう一度、新たな思いで、固定観念を捨ててこの世界に向かっての大きな旅に出かけていこうと思うのです。

                                           新発田ルーテル・キリスト教会牧師
                                                     士反 賢一


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