「真理」って何? 真理のTOPページへ

創世記を読む
                創世記十二章二・三節


祝  福

 今回は後戻りをするのですが、アブラハムの召命の記事をもう一度取り扱うことにしました。前回の真理十二号ではこの同じアブラハムの召命記事から、そこで使われているヘブル語「レフ・レハー」という言葉について書きました。今回は二・三節のところで、祝福という言葉を取り扱います。二・三節は以下のような文章です

わたしはあなたを大いなる国民としあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の基となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。

この二節の文章ですが、改めて祝福という言葉を数えてみると、実に五回も使われています。ちょっと異常な気がしませんか。普通、短い文章に同じ言葉を使うとしてもせいぜい二回がいいところです。それ以上に使ってしまうと、文章的にくどくなり不自然です。しかし、この箇所ではこの僅か二節に「祝福」という言葉が五回も使われています。そのことを考えていくと、文章的にも不自然になるくらい祝福ということをどくど使うわけです。そのことを考えるときに、この文章の中心は実はこのくどくど使われている「祝福」ではないかと思えるのです。そして、そのような観点に立ってもう一度この箇所を読み返すと、二節の

わたしはあなたを大いなる国民としあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の基となるように。

という文書が
  @
わたしはあなたを大いなる国民とする
   Aあなたを祝福し
   Bあなたの名を高める

という三つのことを書いているのではなくて、いずれも祝福ということを言い換えて(Aの場合は直接祝福と言っていますが)語っているという意味で捉えることが出来ます。何故なら、元来ユダヤでは大きいということは祝福されていることであり、小さいということは呪われている、という素朴な考えを持っていましたので、大いなる国民とするとか、あなたの名を高めるという言葉は祝福されたあり方を語っているわけです。ですから、この二節は「神が祝福する」ということの一点だけをただ語っていることになります。
 ところで、皆さんは「祝福」という言葉の意味をご存知でしょうか。教会でよく使われている言葉なのですが、意外と意味がよく分からず雰囲気的に使われてしまいがちです。礼拝の最後にも祝祷で祝福を受けるわけです。多分わたし達は神様の恵みを受けながら生きて行きたいとか、神様の目に深く留められているところで生きて行きたいというような思いや感覚で受けているのだろうと思うのです。ベスターマンという旧約の神学者がこの「祝福」という言葉についてこう語っています。他にも、著名な旧約の神学者がいるのですが、祝福という言葉について語っているのを私は他に見たことがありませんでした。ですから、私にとってこの注解は画期的でした。彼はこの祝福という言葉を「多産の力」と紹介しています。これは古代オリエント世界での意味合いです。ということは、旧約聖書もアブラハムもその世界に深くかかわっていますので、アブラハム自身も「祝福」という言葉を「多産の力」という意味合いで受け止めていたでありましょう。さらに、アブラハムの場合、神様の約束の言葉を見ていくと数を増していくこととか増えていくこと、また、アブラハムはもはや子供が授からない状態であったわけですが子孫を得る約束が神様からなされているのですから、この神様の約束の言葉の脈絡においても、「祝福」という言葉が「多産の力」として受け止められてもよいわけです。ところで、この「多産の力」というのはなんとなく古い意味合いが強く、私には五穀豊穣を願うような生殖的な感じがして肌触りが悪かったので(もちろんこの意味も入っています)、このベスターマンの注解に出会ったとき、わたしは「生み出す力」とか「生産力」という言葉に置き換えてみました。そうすると、ちょっと面白いことになりました。
 その際に、もう一つ付け足しておかなければならないことがあります。二節の後半の訳です。新共同訳聖書や以前教会で使用していた口語訳聖書の場合、その箇所をこう訳しています。

祝福の基となるように。

アブラハムが神様の祝福を受けて、彼自身がこれから世界に満ちていくであろう神様の祝福のはじまりそのものとなる、というほどの意味です。ところが、これをヘブル語の原文で読むと、「おまえは祝福となれ」としか訳せません。どこにも「基」という言葉は出てこないのです。どうして、新共同訳聖書が「基」という言葉を入れたのか、私には分かりません。しかし、ヘブル語の原文を読む限りでは、「おまえは祝福となれ」と訳します。そうすると、アブラハムは神様の祝福を受けるのですが、その祝福とは、アブラハム自身が神様の祝福そのものとなる、ということになります。ちょっと読み込みすぎかもしれませんが、私はこの箇所に出会ったときに、神様がアブラハムに向かって「おまえこそ、わたしの祝福そのものになるのだ」といっているように聞こえてきました。いやそれ以上に、このアブラハムへの神様の言葉は、アブラハムにではなく、わたし自身への言葉であり、神様は私に向かって「おまえこそ、祝福そのものとなれ」という言葉として受け止めています。そして、先に述べた祝福という言葉についての説明との兼ね合いで受け止めるならば、「おまえこそ、生み出す力それ自身となれ」「おまえこそ、造り上げる力それ自身となれ」という言葉として、わたしには聞こえてきました。

 このベスターマンの注解とであったのは、今から八年ほど前で浦和ルーテル学院にて私がチャプレンとして勤務していたときで、このことを説教したことを覚えています。学院の先生方の中に、実にこの方はクリスチャンではありませんでしたがこの言葉を真剣に受け止めて、学院の中にいろいろな問題があったのですが、傍観者の立場ではなくて自らが問題解決の主体として立った姿を見たことが私には印象的でした。英会話教室の先生アンジーの家に行くと服につけるボタンを使った壁掛けがあります。そこにはこういう文章が書かれています。「もし誰もがしないときには、あなたがそれを行いなさい」。何でもかんでも行えとは言っていない。しかし、しなければならないことで、そういうことに限って実に人は誰かに問題提起だけをして自分は引き受けないのですが、そのようにほとんどの仲間が誰かの影に隠れて何もせず様子を伺っているとき、一人で立ち上がってくる。それがほとんどの場合の私の選択でした。本当に大切な問題に限って人は人を巻き込んだり、「一緒にやろう」などと言って協調性を利用し隠れ蓑で身を包みます。でも、それは物事から逃げていくことです。どんなときでも、特に問題に出会ったときに一番大切なことは、仲間と共にではない。まずあなた自らがそれを引き受けてたった一人で立ち上がることがなければ解決の糸口は絶対にありません。そして、それが信仰です。そこに「おまえが、祝福そのものである」という神の言葉が光を放つ。人の手では百パーセント不可能であっても、神の手によってわたし達には何故か分からないが、あの五つのパンと二匹の魚の出来事のように道が開かれて行く。それがわたし達に与えられた福音です。

 教会は楽しいことをしようとか、人に理解してもらおうとかがまず先にあるのではなくて、他でもないあなたがたった一人で自らの足で立ち上がることと深く関係している。そのことがないところでは外見的に教会を繕えても、命はそこにはありません。そして、祝福そのものがそこにはありません。
 神様があなたに語っています。

「おまえこそ、わたしの生み出す力のものである」。

 その言葉を聞いて、自らが一人で立ち上がるときに、神の祝福の業が開始されます。今やすべてのことにおいて、あなたが一人で立ち上がるか、立ち上がらないかが鍵となっているのです。

 神に感謝!
                                   新発田ルーテル・キリスト教会牧師
                                               士反 賢一

「真理」TOPページへ  神のみに仕えなさい(15) ルカの福音書を読む(15) マタイの福音書を読む(15)