2016年2月21日発行 燈心より

ヨベルの年に生きよ 

ルカによる福音書 4章18節〜13節


新発田ルーテル・キリスト教会 牧師 士反賢一

 主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げ知らせるためである。



 ルカの描くイエスの洗礼は、マタイ・マルコとは異なり、人々の列にイエスも加わっての洗礼です。そして、そのイエスに聖霊が降るわけです。そのことから考えると、ルカでのイエスへの聖霊降臨は、洗礼を受けた人々に起こる聖霊降臨と重ね合わせて書き記されているようにも思えてきます。復活での最後のイエスの言葉、《高い所からの力で覆われるまで、都に留まっていなさい》(24章49節)を想い起してください。実に、この約束された聖霊降臨に、私たち教会も与っていくわけです。但し、ルカにおいては、《聖霊に満ちて》(4章1節)と、《聖霊の力に満ちて》(4章14節)との言葉の使い分けに注意してください。使い分けの理由を考えるには、「荒れ野での試み」の個所が良き教材となります。
今回は、神さまが私たち教会を《聖霊に満ちて》から、《聖霊の力に満ちる》に導いていることを憶え、イエスへの聖霊降臨が引き起こしていることについて、ルカから聞き、学んでいきます。

 イエスへの聖霊降臨が引き起こしていることを、ルカは今回の個所で簡潔に書き記しています。その際、イザヤ書61章1・2節から引用しています。彼が引用という手段を用いるのは、この預言がもはや預言ではなく、イエスへの聖霊降臨において成就していると受け取っているからです。すると、ルカが旧約を前提にして福音書を書いていることにも気づきます。彼だけではありません。他の福音書も手紙等も、旧約を前提にして書き記されているわけです。
旧約を知ることは新約理解の要です。是非今教団全体で行われている聖書通読を大切にしてください。覚えられなくてもかまいません。時間をかけて繰り返すのです。だから、気持ちの切り替えが必要です。

 さて、イザヤ書の引用の個所に話を進めます。まず《目の見えない人に視力の回復を告げ》の部分についてです。この部分のへブル語本文は、「解放」と「目を開く」との二つの意味と持つ「ペカッハ・コーアッハ」という熟語を使っています。但し、新共同訳は「解放」の意味でしか訳していません。旧約のギリシャ語訳七十人聖書では、その熟語が持つ意味の二つとも、つまり、《視力の回復》をも訳して書き記しており、ルカは七十人訳からこの箇所を引用しています。
次に、《圧迫している人を自由にし、主の恵みを告げ知らせる》の部分です。この部分については、ルカは引用本文を書きかえています。但し、厳密には書きかえというよりも、イエス信仰に基づいて本文を捉え直し、預言の内容をより明確にしようとしているようです。その結果、ルカは引用の個所全体を《主の恵みの年》の言葉に集約しています。そして、ルカは、イエスと彼への聖霊降臨の出来事を《主の恵みの年》の到来、と書き記したわけです。
 次に、《捕らわれている人に解放を》と《圧迫されている人に自由を》の部分です。これらの文章での《解放》と《自由》との単語は、共にギリシャ語では同じ単語であり、直訳は『赦免』です。ですから、「罪の赦しの到来」の意味合いとなります。ただし新共同訳での《解放》と《自由》との訳で読むと、多々、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルを、神さまが救い出した出来事の脈絡で読まれる感があります。ところが、イザヤ書本文が書かれたのはモーセ時代ではありません。実に、モーセから約七百五十年後の、王国滅亡と捕囚のイスラエルに向って語られたものです。その際、語り方は出エジプト的で、いわば出エジプトを「型」として用い、「新しい出エジプト」の開始を告知しています。

 モーセの出エジプトは、エジプト王の権力に隷属させられ、苦役を強いられたイスラエルを解放する物語です。その際注意したいのは、民の罪については後に起きた問題として扱っています。だから、神さまが虐げられた民を引き出し、民は嗣業の地を取得し、自由農民となって生き出す、そういう、民の罪を問題にしていない救いの物語が大枠です。ところがその後、自由農民となった民は自由を得ることで高ぶり、神さまへの反逆を繰り返しました。結果、神さまに裁かれて捕囚民となっていきます。それは、申命記的には罪を犯し、呪いの中に置かれた民ということです。しかし、その民の罪を赦し、呪いから救い出すことが預言者たちを通して新たに語り出されました。それが「新しい出エジプト」です。イザヤ書52章7節では、そのことを「良き知らせ」と書き記し、ギリシャ語で「福音」と訳しました。これが「福音」との言葉の由来です。新約は、こういう旧約の長い道のりを経て、王国の滅亡への時代と捕囚時代と移り行って、初めて預言者が語り出した「神さまによる、民自らの罪からの救出」を告知し続けているわけです。モーセ時代の虐げからの解放と自由ではありません。民自らの罪からの解放と自由です。それが、《捕らわれている人に解放》、《圧迫されている人に自由》の本来の趣旨です。

 ところで、ルカはこの「新しい出エジプト」を《主の恵みの年》と結び付けて書き記しました。それは、レビ記25章に書かれている「ヨベルの年」のことです。レビ記によると、七年ごとに巡り来る安息の年を七回、即ち、四十九年の贖罪の日に、角笛を国中に吹き鳴らし、五十年目の年を聖別する。そして、全住民に解放を宣言する。その際、何らかの理由で嗣業農地を売却していた人々は、無償で返却されるというものです。だから、ユダヤ教では恩赦中の恩赦、『大恩赦の年』と言っています。実際に、このことをイスラエルが歴史の中で行ったか否かは知りません。しかし、聖書には確かに書き記されているわけで、ルカは行われたか否かなどに全く関心は無く、イエスへの聖霊降臨が聖書そのものに書かれている「ヨベルの年」の開始であり、イエスの十字架での贖いと、その後に起こる聖霊降臨がそれを起す、その一点を見つめつつ書き記しているわけです。
そう考えていくと、福音書は時折『罪』を「負債」や「借金」に言い代えていますが、それも、「ヨベルの年」との関係からと思えてきます。だとするなら、イエスへの聖霊降臨は、私たちが考えている類の小さな「罪の赦し」などではない。私たちが売却してしまった、本来嗣業されていた土地までも無償で返却が起こるという内容となります。教会にも、聖霊降臨にあってそれが起こるということです。私たちは自分に嗣業されていた土地などあると考えたことなどない。全く見たこともない。そんなものあるはずもない、と考えているわけです。しかし、嗣業の土地の返却の意味をも含め、従来の「罪の赦し」を超えた『罪の赦し』という意味合いで受け止める。そして、嗣業された土地の返却に基づき、私たちは自由農民として働き出す。そのことを、教会に臨在している聖霊にあって想い起しつつ、考えていかなければなりません。
イエスによる「ヨベルの年」は、過去の歩みの善し悪しに関係しません。それどころか、キリスト者になってからの背信があるか否か、いや、むしろ背信がある故に赦しを受ける年です。そして、私たちは失われていた嗣業の土地を、自由農民として労働していくのです。だから、「立ち帰れ!」、あるいは「悔い改めよ!」との言葉が鍵となります。もし私たちが、「ヨベルの年」を立ち帰りせずに受け取るならば、私たちは、怠惰な者となって返却された土地を再び誰かに売却するでありましょう。それは早ければ明日、一年後、三年後‥。実に、五十年に一度、人生に一度だけのこのイエスへの聖霊降臨から起こり出した赦免の恵みの出来事を、私たちはどのように受け止め、歩いて行くのでしょうか。

 このように考えている中で、ルカの平地の説教を想い起しました。そこには、イエスから貧しい者への「幸い」と、富んだ者への「不幸」が宣言されています。何故そうなのか?ここにも「ヨベルの年」の到来が関係しているのかな?と思いました。貧しい者には嗣業の土地が無償で返却されます。だから、「ヨベルの年」の到来の中で、貧しい者は神の国を所有するのです。満たされるのです。笑うのです。しかし、富んでいる者には、勿論自由農民としての成果での富もありますが、買収した同胞の土地で得た富もあるわけです。そして、「ヨベルの年」の中では、彼らは同胞から買収した土地を無償で返却せねばなりません。だから、その分彼らは貧しくなります。飢えます。悲しみ泣きます。富む者としての『金持ちとラザロのたとえ』での与えることのない金持ちは、「ヨベルの年」の到来に、より「不幸」となっていくでありましょう。一方、与えることが開始された金持ちザアカイは、より「幸い」が起こるでありましょう。反対に、「ヨベルの年」の中で幸いに与った貧しい者でも、「立ち帰り」がないのならば、満たしや笑いが尽き行くでありましょう。ルカにおいては、「立ち帰り」の要は、同じくルカが書いた使徒言行録20章35節での《受けるよりは与える方が幸いである》とのイエスの言葉です。そしてこの言葉は、実に、富む者であっても貧しい者であっても双方への要の言葉です。

 神さまからの福音の不思議さが、私たち新発田教会の前に置かれています。神さまの御心の全貌がほとんど分からなくとも、まず今は、イエスへの聖霊降臨によって開始された「ヨベルの年」を、私たちは大切にしていきましょう。立ち帰ろうとする誠実さを持って、与えようとする誠実さを持って、自由農民としてその中に歩み出していきましょう。実に、聖書が語る「自由」とは、勝手気まに生きるではなく、「責任を持って生きる自由」と「自分から開始する自由」いう意味です。だから、重さはあるが責任ある生き方を自分から開始して行きましょう。
「ヨベルの年」に生きよ!実にこれこそ、今私たちがルカを通して聞いている福音です。